12/24 クリスマスイブ燭灯礼拝説教要旨

ルカによる福音書2章14節
礼拝堂に入られる際に、馬小屋を飾ってあるのをご覧になりましたか。地味な馬小屋です。クリスマスの馬小屋、そこには、マリアとヨセフがいます。羊飼いやヒツジがいます。牛やロバもいます。決して綺麗ではない馬小屋です。冷たい風が吹いてくるかもしれません。赤ちゃんを産むことのできるような場所ではありません。生まれてきた赤ちゃんを洗ってあげる温かいお湯はあったでしょうか。赤ちゃんの寝る暖かなベッドがあったでしょうか。馬小屋にはそんなものはありません。
どうしてかと言うと、お腹の大きなマリアを、誰一人わたしのお家に泊まってと言わなかったし、赤ちゃんイエス様がお生まれになるのに、誰一人暖かな家へどうぞとは言いませんでした。長い旅を続けてきたマリアとヨセフを暖かく迎えてくれる人はどこにもいませんでした。「どこの誰か判らないあの若いお腹の大きな二人連れのことなんて知らないよ」そんなふうに思ってしまう人間の冷たい心、それがベツレヘムの馬小屋には見えてきます。クリスマスの馬小屋を見つめるときに、わたしたちが気付くことというのは、決して人間の暖かな心とか、美しい光景ではありません。自分のことばかり考える人間の姿が見えてきます。
でも、そこを選んで神さまの独り子であるイエス様はお生まれになりました。そういう人間の罪、冷たさ、人のことを何とも思わない自分中心的な心、まして神様の御子イエス様をお迎えする気持ちなんてどこにもない、そういう人間の罪の只中に、イエス様はお生まれになったのです。そこにこそ、救い主のお誕生が必要だったからです。
わたしたちの心は、それはこの馬小屋のようなものです。それは決して立派な、暖かい、綺麗な部屋ではありません。気がつくといつのまにか隣にいるあの人この人のことよりも自分のことばかり考えている。そんな馬小屋のような心です。そこにイエス様は生まれたいと望んでくださったのです。そしてイエス様がお生まれになった時に、変わるのです。馬小屋が立派なお城に変わるわけではありません。しかしそこにイエス様が来てくださることで、変わるものがあるのです。
イエス様のお誕生を伝える劇を聖誕劇と言います。先日幼稚園のクリスマス会でも聖誕劇をしました。聖誕劇について、こんなお話が伝わっています。
アメリカのある村に小さな教会がありました。クリスマスの日にはイエスさまの聖誕劇を子どもたちがすることになっていました。子どもたちに役が割り当てられ、ある男の子が宿屋の役をすることになりました。セリフはーつ、「だめだ。部屋がない。」そして、うしろの馬小屋を指さすのです。男の子はよろこびました。「ぼくもイエスさまの劇に出るんだ。ぼくだって、劇に出るんだ」「だめだ。部屋がない」男の子はー日に何十回も、何百回もくりかえして練習をしました。そして待ちに待ったクリスマスの日がやってきました。プログラムが進んで、いよいよ子どもたちのクリスマス劇です。長旅で疲れ果てたヨセフとマリアが、とぼとぼと歩いて、ベツレヘムにやってきました。そして、あの男の子が立っている宿屋にたどりつきました。「すみません。私たちをー晩とめてください。」男の子は、大きな声でいいました。「だめだ。部屋がない。」それから、馬小屋を指さしました。「よかった。じょうずにできた。」その直後のことでした。馬小屋にむかって、肩を落として歩いていくヨセフとマリアを見送っていたその男の子が、突然、ワァッと声をあげて泣き出したではありませんか。男の子は走り出しました。そして、泣きながらマリアさんにしがみつきました。「マリアさん、ヨセフさん。馬小屋に行かないで。馬小屋は、寒いから。イエスさまが風邪を引いちゃうから、馬小屋に行かないで。僕の部屋においでよ。」劇は、しばし中断してしまいましたが、誰も腹を立てたりしませんでした。それどころか大人たちは見失っていた美しいものを見た喜びで満たされたそうです。 〔「涙のち晴れ」(いのちのことば社)から抜粋〕
「地には平和、御心に適う人にあれ」と天使は歌いました。「御心に適う人」という言葉は「神が好意をもって下さっている人」、「神が愛して下さっている人」ということです。神様は、私たち全ての者を愛して下さっているのです。どうしてそのように言い切ることが出来るのか。それは、神様の独り子イエス・キリストがベツレヘムの馬小屋で人として生まれ、そしてキリストは、私たち人間の全ての罪を背負って、身代わりとなって十字架にかかって死んで下さったからです。本来神の心に適うはずのない私たちの救いのために、神の子イエス・キリストが身代わりとなって死んで下さって、私たちの罪を全て赦し、私たちが神に愛されている子として新しく生きることができるようにして下さったのです。私たちはあの男の子のように今度はイエス様を「僕の部屋へ来て」とお招きする愛をもって神様に応えることができるのです。また、愛を隣人に向けるとき「平和」が私たちの間にあらわれることでしょう。

2018年12月28日