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礼拝の再開について

7月5日より、礼拝堂での礼拝を再開しました。感染症予防のための注意をまとめましたので、「礼拝の再開について」のPDFを必ずご覧ください。

※新来会の方へ 万一クラスターが発生した場合に来会者を把握するために、新来会の方には必ず受付で用紙に連絡先をご記入いただきます。ご理解の上、ご協力くださいますよう、どうぞよろしくお願いいたします。日本基督教団 西荻教会 役員会

2020年08月22日

2020/2/16の礼拝説教から

マタイによる福音書16章1~4節
イエス様が救い主なのか、神様から遣わされた方なのかを試そうとして、天からのしるしを求めた人々がいました。その人々にイエス様は痛烈な言葉を返しておられます。天からのしるしを求めるのは信仰熱心なように見えますが、実際は「よこしまで神に背いた時代の者たち」として、神様に背を向けていることをあらわしています。しるしをもって人々を驚かせて、イエス様を救い主として信じさせればいいと誘惑したのは、荒野でイエス様を試した悪魔でした。天からのしるしがあれば信じるというのは、悪魔に支配された心なのです。そのように、人は悪魔の支配する時代の中にいます。しかし、神様はその時代の中に独り子を送ってくださいました。しるしを求めることは神様を試すことで、それは罪です。しかし、このような罪に支配されている私たちを救うために、救い主は来てくださったのです。そして、しるしを与えてくださいます。それを信じるならば、「夕焼けだから、晴れだ」と言えるように、神様の救いの時は来ていると信じるためのしるしです。それを「ヨナのしるし」と言われます。これは旧約聖書のヨナ書のことを示して、イエス様ご自身が十字架で救いの御業を成し遂げられた後、三日目に復活なさることを言われています。死からの復活という神様によるしるしが与えられます。唯一のしるしであるイエス様の復活によって、私たちは神様の救いを信じ、よこしまな時代から神様の救いの完成へと向かう新しい時の始まりを知ることができるのです。

2020年03月23日

2020/2/9の礼拝説教から

マタイによる福音書15章29~39節
既に読んできたマタイ福音書の記事を思い出させるような箇所です。「山に登って座って」というのは、山上の説教でのイエス様のお姿を思い起こさせます。大勢の群衆が病人を連れて来て、彼らをイエス様がいやされたことも、これまで何度か読みました。救い主の到来を意味する光景として、11章5節でイエス様が示された光景です。そして四千人に食べ物を与えた奇跡は、5千人に食べ物を与えた奇跡とそっくりです。しかし、これまで読んできた記事を思い起こさせることにこの箇所の意味があります。同じことであることが大事なのです。なぜなら、このイエス様の恵みの御業にあずかったのは、異邦人だからです。マタイ福音書は、群衆が「イスラエルの神を賛美した」と記しています。これは異邦人がイスラエルの神を賛美したということです。この箇所の前でイエス様は「わたしは、イスラエルの家の失われた羊のところにしか遣わされていない」(24節)と言われました。しかし、カナン人の婦人の言葉によって、神の憐みは異邦人にまでも及ぶことが明らかになりました。神様の御心を知って、イエス様はユダヤ人の間でなさった神様の憐みの御業を異邦人の間でも、全て行ってくださったのです。イエス様は、ユダヤ人だけの救い主ではなく、異邦人にとっても、そして私たちにとっても救い主として来られたのです。

2020年03月16日

2020年3月15日礼拝説教動画を配信

2020年3月15日 聖日礼拝説教
聖書:マタイによる福音書16章21~28節
説教題:「死と復活の予告」
youtubeで公開しました。下記のリンクからご覧ください。
https://youtu.be/1J3Op_J4SbQ

2020年3月15日 夕礼拝説教
聖書:マルコによる福音書2章6~12節
説教題:「罪を赦す権威」
youtubeで公開しました。下記のリンクからご覧ください。https://youtu.be/-AzE38V9_GY

2020年03月16日

2/2の礼拝説教から

マタイによる福音書15章21~28節
イエス様は異邦人の住むティルスとシドンの地方にわざわざ行かれました。イエス様が異邦人の地に行かれなければカナンの女に出会うことはなかったでしょう。偶然の出会いではなく、カナンの女の「憐れんでください」という願いを聞くために赴かれています。にもかかわらず、女の願いにイエス様は沈黙されています。弟子たちの言葉を受けて、ようやくイエス様が答えられたのは「わたしは、イスラエルの家の失われた羊のところにしか遣わされていない」という神さまの御心を明らかにされた言葉でした。女の願いのためにここまで来られたイエス様ですが、神様の御心はまだ癒しを命じておられないのです。イエス様は神様の御心に従順であり続けられました。ですから、神様の御心を沈黙の中で問い、イエス様も憐みを求めてくださっていたのではないでしょうか。やがて神様は女に見事な信仰の知恵を与えられました。「主よ、ごもっともです。しかし、小犬も主人の食卓から落ちるパン屑はいただくのです。」主人である神様の憐みは食卓からこぼれる程に豊かです、と言ったのです。この神様が女に与えた知恵の言葉は、神の子であるイエス様を心から喜ばせました。神様の憐みの御心を知ったイエス様は、心から感心して、喜びをもって女の願いどおりに娘をいやしてくださいました。

2020年03月09日

1/26のオープンチャーチ礼拝の説教から

ルカによる福音書6章37節
人を裁くという罪、それはだれもが日常的におかす手軽な罪であり、しかし多くの人の人生を確実に不幸にしてしまう最もおそるべき罪です。人を裁いて満足感に浸ることは、罪人である人間の特長です。その罪を裁く方がおられます。神様です。しかし、神様から裁かれるべき自分が、実際には神から赦されているということを、もっと本気で考えなければなりません。それは、イエス様は、人を裁く罪から私たちを自由にしてくださるために、神様の裁きを代わりに受けて十字架にかかって死んでくださったからです。イエス様が裁きを引き受けてくださったことで、今日の御言葉は、命令から希望へと変わりました。今日の聖書の言葉は、「人を裁くな」から始まっていますが、神様はこの御言葉を反対に実行してくださったのです。イエス様の十字架によって、あなたがたは赦された。赦された喜びを知ったあなたにも赦してほしい。イエス様が代わりに死んでくださったから、あなたは罪人と決められなかった、だからあなたも人を罪人だと決めないでほしい。イエス様が代わり受けてくださったから、あなたは裁かれなかった。十字架の救いをいただいたあなたも、人を裁かないでほしい。裁きの満足ではなく、愛の希望に生きてほしい。そう神様は願っておられるのです。「裁き」が「愛と赦し」となる希望が十字架にあります。本来神様から裁かれてしかるべき自分が、神様から赦された、という信仰から愛と赦しが生まれる希望へ向けた神様の祝福があります。

2020年03月05日

1/19の礼拝説教から

マタイによる福音書15章1~20節
「イエスは、何者か?」が大きなテーマとなっている箇所を読んでいます。エルサレムの宗教的な指導者たちにガリラヤで活動されている新進のラビとしてイエス様のことが伝わったのでしょう。そこでイエス様の言動を監査するためにファリサイ派と律法学者がやってきます。そこで彼らは、イエス様の弟子たちが食事の前に手を洗わないことを見咎めました。当時のユダヤ教では「汚れ」を清めることが重視されていました。「汚れ」は、神様にふさわしくないことを意味します。異邦人や罪人と一緒に過ごしたなら、彼らの汚れを洗い落とさないといけないと考えて、熱心に洗うのです。その根拠は「言い伝え」でした。人の言葉でした。それに対して、イエス様は「神の言葉」に立って反論されます。神の言葉よりも人の言葉を重んじる時、救いは「人の功績」によって決まります。しかし、救いは神様の御心によって定められます。神様は人を愛し、神の言葉としての律法を与えてくださいました。人を神の祝福から遠ざける行いを戒められました。それは人を救うためです。神の言葉を人の言い伝えで曲げてしまい、それを神の言葉よりも大切にするのはおかしなことです。イエス様は、神の子として神様の御心を最もご存知です。だから、律法をお与えになった神様の救いの御心もよくご存じです。体の外から汚れがくるのではありません。私たち自身が罪によって神様から離れているのです。このような私たちの救いのために、神の言葉の成就として来られたのがイエス様です。

2020年02月25日

1/12の礼拝説教から

マタイによる福音書14章22~36節
五千人に食べ物をお与えになったイエス様の奇跡に触れた弟子たちは、大きな興奮を感じていたことでしょう。パンを配るたびに人々から感謝されたことでしょう。しかし、一見すると熱心に見える彼らの思いは、まことの救い主であるイエス様を見失っているものでした。そこでイエス様はすぐに弟子たちを群衆から引き離して、彼らだけで向こう岸へ向かわせられました。しかし、向こう岸に向かう途中で強い風のために進むことができなくなってしまいました。イエス様の命じられた言葉に従って、舟を進ませようとしても風と波のために動けません。大事なのは、この時イエス様が一緒に舟に乗っておられないということです。御心を信じて出発して、困難に出会った時、イエス様の導きを求めて祈ります。しかし、祈りに手ごたえがないこともあります。イエス様の御心は「向こう岸へ行け」と、はっきりしているのに、思うように進めないし、助けを求めてもイエス様のお姿は見えない。そこにイエス様が近づいて来られます。救い主のお姿がここにあります。奇跡をもって人々の称賛を集めるところに立った信仰は救い主を見失わせ、興奮に心を奪われます。それは波を恐れて沈みそうになったペトロのように、私たちをつまずかせます。しかし、まことの救い主であるイエス様は、その時に最も近くにいて手を伸ばして私たちを救ってくださるのです。神様を見失い、他のものに心を奪われる罪人である私たちを引き上げ、救うために来てくださったのが救い主です。このような救い主に出会った時に、「本当に、あなたは神の子です」と告白する信仰が与えられたのです。

2020年02月10日

1/5の礼拝説教から

ローマの信徒への手紙12章9~12節
今年の標語聖句は「希望をもって喜び、苦難を耐え忍び、たゆまず祈りなさい」(ローマ12:12)です。特に「たゆまず祈りなさい」という御言葉を心に留めていきたいと思います。この一節は、キリスト者の生活について教えている箇所に含まれています。9節からの言葉は、日本語の翻訳は大変綺麗に翻訳していますが、もともとは単語が並べられているような不完全な文章です。初めに「偽りのない愛」とい言葉があり、偽りのない愛を説明して「悪を憎む」、「善から離れない」、…「苦難を耐え忍ぶ」と続いています。そして、それらすべての場面で「たゆまず祈りなさい」と教えています。偽りのない愛は、イエス・キリストにおいて示された十字架の愛を言い換えている言葉です。私たちキリスト者が模範とする究極の目標です。偽りのない愛に生きることがキリスト者の生活の規範です。その時に欠かすことができないものが「祈り」です。祈りは、おまじないでも念仏でもありません。祈りは「神は私と共にいる」という信仰にもとづく神様と共に生きていること、そのものです。神様は目を閉ざさず、耳を背けずに私たちの祈りを待っておられます。神様と一緒に生きるところに、偽りのない愛に向かうキリスト者の生活は現れてくるのです。神様を抜きにして偽りのない愛はあり得ません。愛に生きようとするときに、最も大事なことは神が一緒に愛を担ってくださるということです。祈りをなくしたとき、キリスト者としての生活は成り立たなくなります。それは個人だけでなく、教会も同じです。この年、神様と共に生きる証である、「たゆまぬ祈り」を大切にしましょう。

2020年02月03日

12/29のオープンチャーチ礼拝の説教から

詩編103篇2節
安東栄子という宣教師の日記を紹介します。「私は不忠実だったけれども、神様あなたの真実はかわることなく私を支えて下さいました。私は汚れ、罪を犯したけれども、あなたのゆるしは私を聖めつづけ、ゆるしつづけて下さいました。私は高慢で、自己中心だったけれども、あなたはいつもへりくだって、誠実をもって教え続けて下さいました。神様ありがとうございました。私は知恵がなく思慮が欠け、軽率な者でしたが、あなたは折にかなった助けとみことばによって私を諭していて下さいました。私には愛がなく、人を憎み、傷つけ、悲しませる者でしたが、あなたはそんな私の本当の姿をご存知でなおかつ私をつくりかえようとしていて下さいました。痛い、苦しい、悲しい経験をくり返して、はじめてあなたのみこころに気づくにぶい者ですが、あなたはあきらめずに私を見ていて下さるのですネ。ありがとうございます。神様、あなたの前に私は裸です。何も飾ることはできません。人生がもうこの年で終わってもいいと思うほどです。」安藤先生はこの日記を記した11日後に交通事故で召されました。安東先生の日記は、ご自身の死を予感しているかのようです。もし人生がこの年で終ってしまったとしても、何も思い残すことがない、と書かれました。詩編103篇も、そのような感謝と賛美の歌です。振り返れば私たちには心残りな出来事や、心を重くする過ちがあります。しかし、その時にも神様は私たちを見捨てず、困難の中で共にいてくださり、赦しと平安を与えてくださいました。だから振り返ると神様の恵みを数えて、感謝と希望をもって新しい時を歩み始めることができます。

2020年01月27日

12/22のクリスマス礼拝説教から

マタイによる福音書2章1~12節
東方から来た占星術の学者たちが、救い主を訪ね、礼拝をし、宝をささげたという聖書の言葉は大変よく知られたものです。神様の救いの恵みの大きさを示す、聖なる愚かさの物語です。イエス様を探して東方から来たのは、占星術の学者たちでした。彼らの旅の動機は神様への信仰によるのではありません。「星を見た」、つまり自分たちの星占いによってやって来たのです。実に愚かな動機です。この純粋な愚かさを知ると、私たちはむしろヘロデやエルサレムの人々のように不安を覚えるのではないでしょうか。命を懸けて人のために尽くす者、自分をささげて仕える者のように、私たちには理解できない「星」を信じて進む人々によって、私たちの世は支えられています。そこに神様の招きがあるのです。占星術の学者たちは出身も職業も旅の動機も、本来なら神様の救いから最も遠いのです。しかし彼らを神様は導いて、救い主であるイエス様の元へと招かれました。イエス様の元へと招かれ、救い主として拝んだ後、彼らは新しい「別の道」へと、今度は星ではなく神様の言葉に導かれて旅立っていきました。星占いではなく、神様と共に生きる者へと変えられたのです。新しい神の民の誕生です。神様の救いのご決意から漏れている人は誰もいません。神様の救いの中に、自分自身の名を見つけることのできない者は誰一人としていないのです。「すべてを、まず、救う」という神様の愛のご決意が、聖なる愚かさとなって、クリスマスの恵みを与え、十字架の救いを実現されたのです。

2020年01月20日

12/15の礼拝説教から

マタイによる福音書14章1~21節
領主ヘロデはイエス様を洗礼者ヨハネが生き返ったのだと理解しました。ヘロデが捉われたのは「恐れ」でした。自分の罪を責められることを恐れ、ヨハネを殺すことで人々から受ける非難を恐れ、宴会の席で恥をかくことを恐れました。救い主の到来を迎えない者は、どんなにこの世で力があるように見えても、恐れに支配されています。そして恐れる人に群がり、その宴会の席で腹を満たす人々がいます。その宴会の行きついた先にあったのが「死」でした。一方で、イエス様はヨハネが殺害されたことを聞いて、人里離れた所に一人で行かれました。神の言葉に生き、死んだ預言者のことは心痛める出来事だったのでしょう。ゲッセマネの祈りを思い起こさせる父なる神との祈りの時を持ったのでしょう。そこに群衆が後を追ってきます。父なる神と共に救いのご決意を新たにされたイエス様は、救い主として人々を深く憐れまれました。そして、一つの奇跡をもって神様の恵みをあらわしてくださいました。5千人に食べ物を与えた奇跡は、ヘロデのように恐れに支配され、恐れる者を食い物にして死を生み出すこの世の支配に対して、神様の憐みの支配を明らかにされました。ヘロデの宴会も、イエス様の奇跡も、どちらも腹を満たされた者がいます。しかし、「死」を楽しむこの世の支配と、私たちの僅かなものを「良い言葉」によって祝福して、喜びをもって満たしてくださる神様の支配は、まるで違うものでした。

2020年01月17日

12/8の説教から

マタイによる福音書13章53~58節
イエス様は故郷(ナザレ)に行かれました。里帰りではなく、他の町や村へ行かれたことと同じで、福音を告げ、神の国の到来を教えるためでした。会堂で教えられたイエス様の姿に、ナザレの人々は驚きました。この驚きは、あり得ないものを見たというような強い驚きです。そして、繰り返して、「一体どこから得たのだろう」と言いました。自分たちはイエスをよく知っていて、家族のことも知っている。だからこんな力ある教えと奇跡の力をイエスが持っていることなどありえないはずだ、と言い合ったのです。この人々の姿を聖書は「不信仰」と呼びます。なぜなら、救い主の到来を迎えなかったからです。自分たちを驚かせた教えや知恵や奇跡よりも、「自分たちは知っている」ということに留まったのです。そのために、イエス様も奇跡をあまりなさいませんでした。おそらく憐れみの心から、僅かな病人を癒された程度で、それ以上の奇跡をお見せにならなかったのでしょう。イエス様は神様の独り子であられ、私たちの罪をすべて背負って、十字架にかかって死んで下さったという、人間の常識をはるかに超えておられるお方であるということです。私たちの考えの中に救いはありません。あくまで私たちの考えの中でイエス様を理解しょうとすると、つまずきが生じます。信仰は、私たちの知っている世界をはるかに超える神様のもとから来られたイエス様を迎え、慣れ親しんだ世界からイエス様と共に生きる新しい世界へと出ていくことです。

2020年01月06日

12/1の礼拝説教から

マタイによる福音書13章47~52節
たとえ話を語られて後、イエス様は弟子たちに「これらのことがみな分かったか」と弟子たちに聞かれました。天の国のたとえ話を通してイエス様は、一つは「古いもの」として、救い主がいなければ救いを求めても行き詰ってしまう私たちの姿を教えてくださいました。それが、たとえ話の中に取り残される群衆の聞き方でした。そして弟子たちには、救い主をお迎えしたものに開かれている「新しいもの」として、救い主をお送りくださる神様の御心を天の国の秘密として教えてくださいました。47節からの最後のたとえ話は、弟子たちに向けて語られています。弟子たちは「人間をとる漁師」として招かれました。しかし人々を救われる者と救われない者に選り分ける者ではありません。救いを定めるのは神様です。救い主としてイエス様が来られ、十字架において私たちの罪を贖ってくださった時、神様の御心は、私たちを救う者と、滅ぼす者とに分けることではなく、世を救うことのみにあることが明らかになりました。天の国のことを学ぶとは、独り子を与え、私たちを救うという神様の御心を知ることです。そのような人をイエス様は学者に喩えられました。イエス様の弟子は、救われるために何をすべきかを学ぶのではなく、私たちを救うために神様が何をしてくださったかを知らされ、救いをいただき、自分の倉から取り出す学者のように人々に証しする者です。

2019年12月26日

11/24のオープンチャーチ礼拝説教から

ルカによる福音書1章46~48節
聖書が語るクリスマスの物語は、神の独り子が、人間を救うために貧しい、小さなお姿で来てくださるという、あり得ない知らせを、驚きをもって受け取った人々の物語です。特にマリアはそうでした。救い主を宿すことは、マリアには良いことは一つもないと思わざるを得ませんでした。ですから、マリアは「どうしてそんなことがあり得ましょうか」と答えました。そこには「そんなことになっては困ります」という意味を含んでいると思います。私たちは、神様のご意志に、いつも最初から、無条件で服従できるとは限りません。時には抵抗があっても良いのです。抗議が出てしまうこともあるのです。最初から人間の立場を全面的に放棄してしまうことは、必ずしも真実の服従ではありません。むしろ、心を注ぎだすことから真実の神様との出会いが始まるのです。この時、神様も心を注ぎ出しておられました。私たち人間の救いのために、最愛の独り子を罪の贖いとして、与えようとされておられたのです。御子なる神、イエス様ご自身も、私たちのために十字架で死んで、その尊い命を与えてくださるためにお生まれになられようとしていました。そのために聖霊がマリアの中に救い主の命を宿そうとされていたのです。父、子、聖霊の三位一体の神様が、全力で私たち人間の救いのために働いておられたのです。そうした神様と向き合い、心の底から神様の願いを受け入れた時にマリアは「わたしの魂は主をあがめ、わたしの霊は救い主である神を喜びたたえます」と高らかに歌いました。神様が私に目を留めてくださる。ここに救いのはじまりがあります。

2019年12月23日

11/17の説教から

マタイによる福音書13章44~46節
小さなたとえ話が二つ続いています。たとえ話の言葉のみで読むと、畑に隠されていた宝と高価な真珠が神様の救い、畑で宝を見つけた人と商人が神様の救いを求める人にたとえられているように聞こえます。神様の救いは、全財産を売り払ってでも手に入れるべきものです。しかし、それは偶然見つけた宝のように、救いは偶然の賜物なのでしょうか。高価な真珠を探し求めても見つからないかもしれません。そもそも、洗礼を受けた私たちは、一体いつ全財産を要求されたでしょうか。全財産と引き換えに神の救いを買うことなどできません。つまりこのたとえ話もイエス様を抜きに考えると行き詰ってしまうのです。そこで、イエス様を鍵として聞き直すと、このたとえ話はまるで違ったものになります。畑で宝を見つけた人と真珠を探している人は、イエス様のことです。そして宝や真珠に喩えられているのは、神様の救いをいただいた私たち自身です。イエス様は私たちを救うためにご自分の一切を捨てて世に来てくださった救い主です(フィリピ2章6~8節)。世に来られ、高価な真珠を探す商人のように、御国の子としての私たちを見つけ出してくださいました。そして、御自分自身の命を、私たちを罪から贖うための代価として与え、十字架にかかってくださいました。イエス様の十字架によって私たちは神様の救いをいただいたのです。私たちが探し、私たちが代価を支払うのではありません。イエス様によって私たちを救ってくださることこそ、神様の御心なのです。

2019年12月10日

11/10の説教から

マタイによる福音書13章34~43節
イエス様による「毒麦のたとえ」(24~30節)の説明です。その前に、たとえ話について預言の言葉が引用され、「天地創造の時から隠されていたことを告げる」、とあります。天の国のたとえは、神さまの天地創造の時からの御心を伝えるために語られているのです。では、その隠されていた御心とは何でしょうか。それが「毒麦のたとえ」を通して教えられます。毒麦のたとえは、たとえ話の中に取り残されると、毒麦のような私たちに良い麦となることを教えているように聞こえます。しかし、毒麦がどうしたら良い麦となれるでしょうか。そこで、このたとえ話を語ってくださる救い主イエス様が鍵となります。天地創造の時、神さまは「在る」ことを願われて私たちを創造してくださいました。神さまの御心は私たちを失わないこと、神と共に在れ、ということです。つまり、そもそも私たちは毒麦として滅ぼされるものではなく、神さまと共に在ることを願われている良い麦、つまり「御国の子ら」なのです。どんなに神さまから離れ、毒麦に似た姿となっていても、私たちは天地創造の時から私たちは、「滅びてはならない」という御心を向けられている、紛れもない良い麦なのです。神さまによって滅ぼされるべきつまずきとなる者や不法を行う者、からみつく罪に捉えられて毒麦と見分けがつかなくなっています。しかし、救い主イエス様が来てくださいました。そして、十字架において罪の贖いを成就されたとき、私たちは御国の子であることが明らかになりました。誰もが御国の子らの姿を取り戻し、「正しい人々」と呼ばれて、父の国で太陽のように救いの喜びに輝く救いをいただけるのです。

2019年12月04日

11/3の礼拝説教から

マタイによる福音書13章31~33節
イエス様のたとえ話が続いています。「からし種のたとえ」と「パン種のたとえ」では、共通しているのはきっかけは小さいものだということです。もう一つは、からし種もパン種も、蒔かれ、加えられたら分けることができないということです。からし種やパン種が神さまの言葉であることから、神の言葉は働いて隣人を休ませる大木のように、あるいは飢えているものを生かすパンのように私たちを変えるのだと、聞くことができます。これが群衆の聞き方です。ユダヤの人々は、神の特に律法を大切にしていました。律法はどんな小さな言葉でも、しっかり聞きなさいということを教えていることになるのでしょうか。大切なのは、このたとえが「天の国」について教えているということです。天の国とは「神さまの御心が実現する」こと、言い換えるならば神さまの支配を意味する言葉です。そこでイエス様を救い主として信じる弟子として、このたとえ話を神さまの御心を教えているものとして聞き直すと、受け取る側ではなく「からし種」、「パン種」としてイエス様が神さまによって与えられていることが、最も大事なことです。他の種では駄目なのです。どんなに小さくても、「からし種」であるイエス様を与えられなければ、空の鳥が巣を作る大きな木に喩えられる、天国の恵みは育たないのです。どんなに僅かでも「パン種」以外の「種」を加えたなら、粉全体が腐ってしまいます。神さまは、私たちに対する救いのご決意の実現のために、蒔かれて死ぬ種としてイエス様が世に与えられました。そこから大木のように隣人を休め、パンのように隣人を生かす愛が世に証しされるのです。

2019年11月25日

10/27のオープンチャーチ礼拝説教から

ペトロの手紙一1章24~25節
「人は皆、草のようで、その華やかさはすべて、草の花のようだ。草は枯れ、花は散る。」私たち人間は、草のように枯れ、花のように散っていきます。私たちの周りにあるもの、私たちが持っているものも財産も、地位も名誉も、美貌も健康も、家族や親友も、移り行き、失っていきます。最後には自分の命を失います。その空しさに気づかされた時、投げやりな思いになることもあるでしょう。「しかし、主の言葉は永遠に変わることはない。」今日の聖書の言葉は、このように続いています。永遠に変わらない神さまの言葉はたとえばこのように語りかけておられます。「わたしの目にあなたは価高く、貴く、わたしはあなたを愛し、あなたの身代わりとして人を与え(る)」(イザヤ書43章4節)。私たちはもともと、神さまの愛によって創造され、神さまと共に生きるものでした。神さまと共に生きるものとして死と滅びに脅かされるものではありませんでした。しかし、神さまを離れ、「罪」に支配された時に、死と滅びに脅かされるものになりました。しかし、神さまの私たちへの愛は変わりません。神さまは、独り子であるイエス様を与えて下さいました。イエス様が私たちの罪の罰の身代わりとなって十字架で死んでくださいました。さらに、神さまの愛は、死を打ち破ってイエス様を復活させられました。本当に深い所から私たちを支えてくださるのは、永遠の神さまです。神さまは永遠に変わらずに寄り添ってくださいます。ここに私たちを生かす希望の福音があります。

2019年11月20日

10/20の説教から

マタイによる福音書13章24~30節
種を蒔く人に続くイエス様のたとえ話です。種を蒔く人を聞いた時と同じように、まずたとえ話の中に、それからイエス様を鍵として天の国の秘密に導かれていきましょう。このたとえ話は天の国について二つのことを語っています。一つは天の国に迎え入れられるのは良い麦であること、もう一つは、毒麦と良い麦は私たちでは見分けがつかないということです。そこで、主人である神様は、間違って良いものを滅ぼすことのないように、毒麦と一緒に育て、収穫の際に見分けて、毒麦は焼き、良い麦は倉に納める―つまり天の国に入れるとされました。そうすると、私たちが救われるためには、良い麦になることが目標となります。しかし、毒麦が良い麦になることがどうしてできるでしょうか。そこで救い主であるイエス様が鍵となります。イエス様が十字架によって私たちを救ってくださったのは、私たちが良い麦になれないからです。毒麦は良い麦に自分自身ではなれません。そこで天の国に入れるかどうかを決められるのは刈り入れの時の主人の言葉にかかっていることが大事になります。神様から見て毒麦のように役に立たないものであっても、神様が迎えると決めて下されば、救われるのです。イエス様が十字架で私たちの罪を贖ってくださり、私たちに代わってただお一人神様の裁きを受けてくださいました。唯一の良い麦であるイエス様によって、毒麦である私たちは救われるのです。これが天の国であり、神様の御心が成就することなのです。

2019年11月05日

10/13の説教から

マタイによる福音書13章18~23節
 イエス様のたとえ話は、語られた言葉を分析するだけでは神の国の秘密を悟ることはできません。十字架にかかり復活された救い主であるイエス様を手掛かりとしたときに、神の国の秘密へと私たちを導いてくれます。種を蒔く人のたとえは、まさにこのことを私たちに教えてくれるたとえ話です。このたとえ話を解説されるイエス様が大事にされるのは「悟る」ということです。良い地とは「御言葉を聞いて悟る人」と言われています。道端・石地・茨の間、いずれも実りにいたることができませんでした。神の国の秘密を悟り、その恵みにあずかることができないという点では良い地以外はみな同じです。どうして悟れないのでしょうか。それは神様がまだ悟ることを許されないからだとイエス様は言われました(11節)。神様が許さないと私たちは良い地となることはできないのです。しかし今や悟ることが許される時が来ました。神の国の秘密の鍵であるイエス様が私たちを神の国の秘密へと導いてくださいます。道端のような者、石地のような者、茨のような誘惑に負けてしまう者、そのような悟ることのない者がやがてイエス様を十字架につけろと叫びました。しかしそこに私たちすべてのものを良い地として受け入れてくださる神様の救いがあります。豊かな実りにたとえられる神様の恵みが与えられます。

2019年10月28日

9/29のオープンチャーチ礼拝説教から

フィリピの信徒への手紙3章13~14節
人生の中で度々試験や競争で私たちは測られています。どうしても試験や競争で明らかにされる価値観の中で生き、負け組にならず、勝ち組に入るために躍起になります。今日の聖書の言葉を、パウロは競技場で行われる競争をイメージして記しています。神様が与えてくださる「復活の命」という救いを目指して走っている競争です。復活の命をいただくために「後ろのものを忘れ、前のものに全身を向けつつ…目標を目指してひたすら走る」のです。しかしそこに、「神がイエス・キリストによって上へ召して」という言葉が挟まれています。神様の救いを得るために欠かせないことは、「神がイエス・キリストによって上へ召して」くださるということです。そうすると、この競争は「一番になるための」競争ではなくなります。互いに競って一番を目指していたはずなのに、神様がイエス様を遣わして皆を、「上へ召して」くださるからです。神様の救いを求める者は皆、イエス様に迎えられて、神様から賞をいただくことができるのです。勝ち組も負け組もありません。幼い子が、お父さんやお母さんに、走り寄っていくようなものです。全力で子どもは走ってきます。「抱っこして!」と求めます。お父さんやお母さんが抱っこしてくれます。イエス様を慕って前へ走っていくと、イエス様が私たちを抱っこして抱き上げてくれる。イエス様のふところにすっぽり納まって、神様がくださる賞である「復活の命」をいただくことができるのです。

2019年10月23日

9/22の礼拝説教から

召天者記念礼拝
ヨハネによる福音書15章1~10節
キリスト教会の葬儀を見た僧侶が、このような感想を語られました。「キリスト教の葬式では、死が去って行くようだ。」葬儀とは、死を告げるところです。一人の方の生涯の終わりを明らかにするところです。死に直面する寂しさと悲しみはキリスト教においても存在します。この死の力をごまかすことなく受け止め、しかし死の力に勝る復活の命を語るのが教会の葬儀です。その点で、教会は不思議な所です。死は私たちに別れを強要します。地上で結ばれた絆が断ち切られます。ところが「死が終わりではない」と信じる教会では、死をもって結ばれる絆があります。それは復活の命を信じるからです。イエス・キリストは生ける者と死せる者の両方の救い主だからです。イエス様は十字架にかかる最後の夕食の席で「わたしはぶどうの木、あなたがたはその枝である。人がわたしにつながっており、わたしもその人につながっていれば、その人は豊かに実を結ぶ」と言われ、「わたしの愛にとどまりなさい」と教えられました。死を前にされても、つながることを求められました。なぜなら、たとえ私たちの目に「枯れた骨」のように終わりを迎えて見えても、キリストの愛、父なる神の愛につながる者は、命を与えられるからです。復活の命とは神さまの愛の実りです。死が私たちをどれほど脅かしても、死の力にはもう、私たちを永遠に終わりにしてしまうことはできないのです。召された方々も私たちも、キリストの愛、神さまの愛につながっていることで結ばれているのです。

2019年10月23日

9/15の礼拝説教から

マタイによる福音書13章1~9節
 「種を蒔く人」のたとえは、イエス様がお話しくださるたとえ話を聞くための心構えを教えてくれるものです。18~23節にはイエス様ご自身の解説もあります。イエス様はたくさんのたとえ話をなさいました。普通、たとえ話は伝え難いことを、伝わりやすくするために用いるものです。ところが、イエス様のたとえ話は大分違います。イエス様も、たとえ話ですから、大変に分かりやすい言葉でお話ししておられます。種を蒔く人の姿は、当時の人々にとって馴染みのある姿です。当時のやり方で種を蒔くと、道に落ちたり、石地に落ちたり、いばらの中に落ちることがあります。それらは実りません。しかし「良い地」に落ちると実り、多くの収穫をもたらします。お話はわかります。しかしこの話を通して一体何が教えられているのでしょうか。聖書を読む私たちには、すでにヒントが与えられています。このたとえ話が語られる前に、主イエスの家族とは誰か、ということが話題となり、「父の御心を行う人」が家族だと教えられました。これは神の言葉を聞いて行う人々のことです。つまり「言葉を聞く」ことがたとえ話のテーマです。しかし、それでこのたとえ話をすべて悟ったことにはなりません。それだけでは、人の話を聞く「傾聴」の話で終わってしまいます。そこで留まるならば、信仰へ至らない「群衆」の聞き方です。大事なことは、信仰の耳でもってたとえ話を聞くことです。「イエス様の言葉」、「神の言葉」を聞くことを求めることです。

2019年10月23日

9/8の礼拝説教から

マタイによる福音書12章46~50節
 イエス様は「だれでも、わたしの天の父の御心を行う人が、わたしの兄弟、姉妹、また母なのである」と言われました。天の父である神さまの家に属するものが私の家族だと言われたのです。このイエス様の言葉から、やがて教会では、お互いを「兄弟姉妹」と呼び交わすようになりました。イエス様は12章で一貫して「家」を譬えに出して語ってこられました。家の外にいる者は、悪霊が主人になっている家に属する罪の奴隷です。しかし救い主であるイエス様が来られ、悪い時代の中で罪の奴隷とされていた私たちを救い、神様の家へと連れ戻してくださいます。そういう新しい時代が到来したのです。救われて、イエス様から家族と呼ばれる者を「天の父の御心を行う人」と言われました。ルカによる福音書はこの言葉を「神の言葉を聞いて行う人」と記しています。神の言葉を行うとは、神様の命のみ言葉に生かされている人ということです。ちょうど当時の家庭のありふれた光景として、一家の主であるお父さんが食卓で家族にパンを分け与えてくれるように、同じ家の家族の集う食卓で、お父さんからパンを受け取れる人は家族です。お父さんからパンをいただくことが兄弟であり、姉妹であり、母であって、奴隷ではない証拠です。そのように、神の言葉をいただいて養われていることがイエス様の家族の証拠です。そこに、「だれでも」加えてくださるのです。今は家の外から中を伺っている者たちを、必ずイエス様は迎え入れてくださいます。

2019年10月07日

9/1の礼拝説教から

マタイによる福音書12章43~45節
 イエス様の真剣な忠告です。汚れた霊は神さまの御心に逆らって私たちを支配するものです。イエス様は悪い時代の者は汚れた霊から「我が家」と呼ばれていると教えられました。マイホームと言うと素敵な言葉ですが、汚れた霊に「我が家」と呼ばれるのは恐ろしいことです。それだけではありません。汚れた霊が出ていくと私たちは、私たち自身が自分の家の主になると思うかもしれません。しかし、そうはならないのです。私たちでは汚れた霊に勝てません。「ここは私の家だ」と頑張っても、汚れた霊にとっては何の力も持ちません。空き家同然で押し入られてしまいます。自分自身を家の主人として掃除をして家を整えた分、前よりもっと汚れた霊にとっては快適になってしまうのです。そこで以前よりもひどい汚れた霊の奴隷にされてしまうのです。大事なことは、汚れた霊に負けない強い方に一緒に住んでいただくことです。それは神様です。使徒パウロはキリスト者を「聖霊の神殿」と呼びました(コリントの信徒への手紙一6:12~20)。神殿とは「神の家」です。私たち自身を神さまが「我が家」と呼んで一緒に住んでくださるのです。私たちを「我が子」と呼んで守ってくださいます。汚れた霊は神さまに勝てません。イエス様は十字架の贖いの救いの御業によって私たちを新しくして、神さまの住まいとしてくださるのです。汚れた霊に支配された悪い時代から私たちを救い、「神は我々と共におられる」という新しい時代を与えてくださるのです。

2019年10月07日

8/25のオープンチャーチ礼拝説教から

マタイによる福音書4章4節
「人はパンだけで生きるものではない」。この言葉は、イエス様が悪魔の誘惑に対してお答えになった言葉です。イエス様は救い主として歩み出された時に、私達が受ける試練、誘惑を自らお受けになって、何によってその試練を乗り越えていくのか、誘惑を斥けていくのか、どのようにして神と共に歩むのかを示してくださいました。その時に、空腹になられたイエス様に悪魔が語りかけました。「もしあなたが神の子であるなら、この石に、パンになれと命じてごらんなさい。」
「神なんか信じなくったって生きていけるじゃないですか」と、そう言う人達がたくさんいます。けれども、人は人生の中で様々な出来事に出遭っていきます。パンは大切です。しかし私たちの命を、この私の人生を支え、導き、救いを与えるのは、私を愛しておられる神様ご自身が一緒におられるからだ、とこの言葉によってイエス様は答えられたのです。信仰が建前になっていくと、いざという時、本当に困難に出会った時に、役に立たなくなっていきます。聖書で「生きる」ということは、最低限の生存を維持するということを意味するのではありません。そこには生きる歓びが、その可能性が開かれていなければ「生きる」とはいわないのです。その歓びと可能性は、私たちに本当に必要なものをご存知である神様と共に生き、その言葉によって生かされることから始まるのです。

2019年09月17日

8/18の説教から

マタイによる福音書12章38~42節
律法学者とファリサイ派の人々がイエス様に「先生、しるしを見せてください」と言いました。主イエスが神から遣わされた神の子、救い主であるという証拠を見せろということです。イエス様は大変にきつい言葉でお答えになりました。「よこしまで神に背いた時代の者たちはしるしを欲しがる。」「よこしま」とは「倫を外れている、姦淫を犯している」という意味の言葉です。聖書はよく神様と神の民(イスラエル)の関係を結婚に喩えています。結婚のように契約と愛によって結ばれた関係です。結婚に喩えられている神様との関係を裏切っているから「しるし」を求めるのです。神様の愛を信じられないから「証拠」を示せと迫るのです。既にイエス様は、病を癒し、悪霊を追い出し、死者を生き返らせるという奇跡を行ってきました。しかし、神様の愛を信じられない者は、どんな「しるし」を見ても、神様の愛を信じて悔い改めることはできません。「よこしまな時代」の中に生きる者は神様に近づくことができないのです。信仰は証拠を求めていくところに生まれるものではありません。だから、全く新しい「しるし」が与えられることをイエス様は教えられました。それは、私たちのために神の独り子であるイエス様が十字架にかかって罪の罰を代わりに受けて死んでくださり、死から復活されることです。私たちを愛する神様は、愛する子を死に渡されました。しかも神様の愛は、死に勝利され愛するものを復活させる愛です。この救い主イエス様の十字架と復活の時によって、「よこしまな時代」は終わりを迎え、十字架と復活を信じる信仰が神様によって与えられる時代がはじまったのです。

2019年09月09日

8/11の説教から

マタイによる福音書12章33~37節
ここでイエス様が問題としておられるのは、私たちの発信する「言葉」です。言葉が証拠となって神さまの前で義と罪が定められると言われます。なぜなら言葉は心にあふれていることを発しているからです。この箇所を「きれいな言葉を使いなさい」という教えとして読むだけでは済まないのです。むしろ、そのような誤魔化しを許さない厳しく私たちを罪人として指摘するイエス様の言葉なのです。「言っておくが、人は自分の話したつまらない言葉についてもすべて、裁きの日には責任を問われる。」学生の頃、「話した言葉は決して消すことができない。書いた言葉は消しゴムで消すことも、訂正することもできる。けれども、話した言葉は決して消すことも、訂正することもできない。それを聞いた人の中に残り続ける」、ということを先生から聞いて、恐ろしく思ったことがあります。まして、ここで私たちの言葉を聞いておられ、責任を問われるのは神様です。誤魔化すことはできません。一体誰が罪に定められることなく神様の前に立てるでしょうか。一人もいません。誰も義に定められません。しかし、この罪の行き詰まりを語られた方こそが、この行き詰まりを打ち砕く救い主でした。罪の実りの報いを十字架で身代わりになって引き受けてくださいました。私たちは悪い木として切り倒されることなく、神の国に移されて、まことの父である神様から良いものをいただいて、良い木として良い実を結ぶ新しい命を与えられるのです。

2019年09月05日

8/4の説教から

マタイによる福音書12章22~32節
悪霊に苦しめられていた人がイエス様のところへ連れてこられました。安息日でしたがイエス様はすぐに悪霊を追い払って、一人の人を神様のもとへと取り戻してくださいました。群衆の中にはイエス様の御業を見て「この方こそ神様が遣わされた救い主だ」と受け止めた人もいました。するとファリサイ派の人々はイエス様が「悪霊の頭」であるから、悪霊に指図していると言ったのです。それに対してイエス様は、「それは内輪もめだ」と言われました。イエス様が悪霊を追い出されたのは、悪霊との戦いに勝利したからです。そしてイエス様は「わたしが神の霊で悪霊を追い出しているのであれば、神の国はあなたたちのところに来ているのだ」、と言われました。さらに「だから、言っておく。人が犯す罪や冒瀆は、どんなものでも赦される」と言われ、また「人の子に言い逆らう者は赦される」と言われます。どんな罪を犯している者でも、どんなに神様を冒瀆している者でも、赦していただけるのです。人の子とはイエス様のことです。イエス様に言い逆らう者ですら赦されるというのです。赦されない罪などない、ということです。その罪の赦しは何によって与えられるのでしょうか。主イエス・キリストが、私たちのために、サタンと、罪の力と、戦って下さり、ご自分の苦しみと死と復活によって勝利して下さったことによります。イエス様は、神様の救い(神の国)の外に立つのではなく、その中で神様と一緒に救いを喜んでほしいと言われたのでした。

2019年08月26日

7/28のオープンチャーチ礼拝説教から

詩編55篇23節
聖書で「ゆだねる」と翻訳されている言葉は、「放り投げる」という意味の言葉です。自分の重たい荷物のような苦労や、憎んだり恨んだりといった心のこだわり、そういう自分ではどうすることもできないものを「おもいわずらい」と言います。それを思い切って神さまに放り投げてしまうことを「ゆだねる」と言います。聖書は繰り返し「おもいわずらうな」と語り掛けています。「神さまにゆだねなさい」、と勧めています。ですが心配性で疑り深い私たちは、「出来るものなら、そうしたい」と思っても、自分の握りしめている問題を手放すこと自体が怖い、そんなふうに感じて神さまに放り投げることができません。そのような私たちのもとに神さまはイエスさまを送ってくださいました。罪は私たちの誰一人として解決できない究極の重荷でした。しかし、「イエスさまは私たちの背負いきれない一番重たい荷物である罪を私たちに代わって背負ってくださった。イエスさまに背負いきれない『おもいわずらい』はないんだ」ということを教えてくれたのが十字架です。私たちには、自分一人で自分の人生を背負い込むように圧し掛かる「おもいわずらい」に耐えきれなくなる時に頼ることのできる十字架の主が与えられています。「ゆだねる」ということは、「自分を明け渡す」ということでもあります。キリスト教徒の信仰は、自分の力に頼った修行の積み重ねではないのです。私たちを愛される神さまと、イエスさまに「ゆだねた」安心の中で生きることです。

2019年08月20日

7/21の説教から

マタイによる福音書12章9~21節
イエス様はユダヤ人たちの会堂にお入りになりました。会堂では、安息日に多くの人々が集まって律法を学び、祈る礼拝をしていました。「すると、片手の萎えた人がいた」(10)。ファリサイ派の人々は片手の萎えた人が目の前にいれば、イエス様が癒しの業をするに違いない、と考えました。病気の人を癒すことは仕事です。安息日には仕事をしてはいけないのです。ファリサイ派は、安息日に人々が集まっている会堂の真中ですれば、多くの証人の前で、明確に、イエスは安息日の律法に違反していると訴えることができる、と考えました。そしてイエス様に「安息日に病気を治すのは、律法で許されていますか」と問いました。イエス様は「安息日に善いことをするのは許されている」と言われて、手の萎えた人を癒されました。それは、「わたしが求めるのは憐れみであって、いけにえではない」(マタイ12:7)の神様の御心の実践でした。安息日の掟は神様の憐れみの御心によって与えられているものです。人々が神様の恵みの御心の中で、安息を与えられる、神様の憐れみの中で憩うことができる、そのために安息日はあるのです。だから、安息日に癒しの業をするのは正しいことなのです。イエス様はご自分の命を懸けて、傷ついた者を折ることのないように、罪の滅びに渡さないために、神さまの憐れみを担って世に来てくださいました。神様の憐れみの御心こそ、イエス様を信じて集う教会の拠るべき土台です。

2019年08月07日

7/14の説教から

マタイによる福音書12章1~8節
安息日は十戒によって定められた仕事を離れて休む日であり、礼拝の日でした。この日には仕事をしてはならないと律法は定めていて、何が仕事になるのか、ということに当時の人々は心を奪われていました。そこで安息日に空腹のために麦の穂を摘んで食べた弟子たちの行為が「仕事」にあたるとして咎めた者たちがいました。そこでイエス様は、安息日は何を根拠に定められているのか、神さまが安息日によって私たちに求めておられるのは何か、ということを旧約聖書の御言葉から話されました。
ダビデは空腹の時、祭司しか口にしてはならない供え物のパンを食べたが、神さまはそのことを咎められたか。また安息日に神さまの御心に従って働く祭司は仕事をすることが許されているではないか。それは神さまが求めているのが「憐れみ」に他ならないからだ。
安息日は神様の憐れみ、すなわち愛に基づいて与えられている日です。だから、安息日を与えてくださったことを真剣に考えるならば、仕事か仕事でないかを議論して、人を咎めて罪人に定めることに熱心になるのではなく、飢える者の空腹を満たすように、神様に仕える祭司のように、神様の愛と憐れみをあらわすことを、神様は求めておられるのだ、とイエス様は教えられました。「疲れた者、重荷を負う者は、だれでもわたしのもとに来なさい。休ませてあげよう」(11:28)。神様の憐れみへ招かれるイエス様は安息日の主です。

2019年07月31日

7/7の礼拝説教から

マタイによる福音書11章25~30節
「疲れた者、重荷を負う者は、だれでもわたしのもとに来なさい。休ませてあげよう。」これは教会が門や扉の所に記されていることが多いイエス様の御言葉です。イエス様の招きの言葉です。イエス様は、招きに応えた者たちを、「幼子のような者」と呼んでおられます。これは神さまの招きに応えなかった者たちが「知恵ある者、賢い者」と言われるのに対して愚かだという意味ではありません。幼子は、父母を信じて、真っすぐに手を伸ばして抱きつきます。丁度そのような光景を思い浮かべられると良いでしょう。そのように父なる神さまを慕う姿こそ、神さまの御心に適う者でした。そこで大事なことがあります。それはこのように神さまを慕い、神さまに迎えられるために不可欠なのがイエス様と一緒であるということです。神さまから永遠から永遠にわたって愛されている神の独り子であるイエス様が、私たちに父である神の愛を証してくださいました。そして、軛をイエス様と一緒に負います。軛は2頭の家畜を一緒に同じ向きに歩ませるときに使われる道具です。神さまに迎えられた者には、神の子とされたことに相応しい生き方があります。それをイエス様が一緒に歩いて教えてくださいます。軛に対して「重荷」があります。これは罪によって独りで背負ってきた苦しみや悩みです。それに代わって軽い軛を、イエス様と一緒に担うことで安らぐのです。救い主であるイエス様が私たちに与えられていることこそ、救いの基なのです。

2019年07月22日

6/30のオープンチャーチ礼拝説教から

使徒言行録4章12節
「ほかのだれによっても、救いは得られません。わたしたちが救われるべき名は、天下にこの名のほか、人間には与えられていないのです。」この名とは、救い主イエス・キリストのことです。私たちは、イエス様を宣べ伝えます。それも十字架にかかって死んだ方、そして復活された方として伝えます。それを伝道と呼びます。他にもいろいろ救いを得る手段はあるけれども、イエス様を信じるのも一つの手段です、というのではないのです。伝道はイエス様以外では救いは得られない、という断言を伴う確信をお伝えするのです。この断言は、キリスト教徒が自分たちを絶対化し、他の信仰の人々をとんでもない迷信に捕われていると軽蔑したり、攻撃することを許すものではありません。「わたしたちが救われるべき名は、天下にこの名のほか、人間には与えられていないのです」という断言は、「どの宗教がいいか」という話ではなく、私の人生を本当に支え導くものは何か、ということです。その支えと導きは、私の中にある自分の力や理論や信念や信仰心といった何か、私が自分のものとして獲得し主張する経歴や功績や称賛にあるのでしょうか。あるいは家族や友人や仲間、国にあるのでしょうか。そうではない、とペトロは断言するのです。十字架にかかって私たちのために死んでくださり、復活されたイエス様がおられる、という神さまが実現してくださった救いの業、その事実だけが唯一の救いの根拠だと語っているのです。

2019年07月17日

6/23の礼拝説教から

マタイによる福音書11章20~24節
主イエスは悔い改めなかった町々を叱り始められました。「叱る」と言っても、怒っているということではありません。また、「もう知らない」と捨ててしまうのでもありません。この叱るというのは、子の罪を憂い、嘆く姿です。「不幸」と翻訳されている言葉も、うめき声をあらわす言葉です。罪のために洗礼者ヨハネの招きにも、イエス様の招きにも応じることのなかったコラジンやベトサイダの人々は、このままではソドム以上の厳しい罰、すなわち滅びに定められてしまう。しかし、どうして見捨てられるだろうか。そういう深い愛のお叱りです。聖書において、「贖い」は大切な概念です。子の罪を共に担う親の愛も「贖い」です。以前、講演で聞いたことがあります。ユダヤでは、子が罪を犯した時に、親は鞭で子を打って罪から離れるように教えました。しかしそれだけでなく、親自身も自分自身をより強く打って、この罪をその身に刻んで共に罪を担いました。子は親の傷を見て、罪から離れる決意を新たにし、親は傷をもって子の存在を刻み、絶対にこの子を捨てないという愛を新たにしたのです。この日、嘆きのお叱りをなさったイエス様は、悔い改めることのない私たちの罪の一切を担い、十字架においてその身に傷を負ってくださいました。その傷は、復活されたイエス様のお身体にも残り続けました。その傷こそ罪人である私たちを御自身に刻み込み、忘れることも捨てることもないというしるしです。お叱りになったイエス様は十字架の愛をもって罪を贖ってくださる救い主です。

2019年07月09日

6/16の礼拝説教から

マタイによる福音書11章16~19節
イエス様は「今の時代」をたとえて子どもたちが「結婚式ごっこ」や「葬式ごっこ」に誘っているのに応えてもらえない様子を語られました。これは、洗礼者ヨハネによる神さまの招きにも、イエス様による神さまの招きにも応じなかった様子を指摘しています。洗礼者ヨハネが自分自身を律して厳しい生活をしながら悔い改めと神さまの招きを語ると「悪霊に取りつかれている」と批判し、イエス様が神さまの救いをいただいた罪人と喜びを共にして食事をすると「大食漢の大酒飲み」と非難しました。「今の時代」、すなわち罪の支配の下にいる人は、どんな神さまの招きに対しても非難し、傲慢になってしまうのです。それでは、一体どうしたら人は救いをいただくことができるのでしょうか。「知恵の正しさは、その働きによって証明される」とイエス様は言われます。「知恵」とは私たちの救いを決意なさった神さまの知恵であり、イエス様ご自身のことも示している言葉です。罪のために神さまに対して目も耳も塞がれて、神さまの招きを遠ざけてしまう私たちのために、神さまご自身が人となってくださいました。それが神さまの独り子であるイエス様です。そして、人々の知恵に身を任せて、罪のない方であるのに、「罪人の仲間」となってくださり、罪を負って、十字架で身代わりとなって神さまの裁きを受けてくださいました。この神さまの私たちを愛する愛の知恵によって、私たちの中に「この方こそ救い主」と信じる、新しい時代が到来したのです。

2019年06月24日

6/9のペンテコステ礼拝説教から

使徒言行録1章6~11節
ペンテコステは日本語で「聖霊降臨日」と言います。聖霊なる神が降り、私たちと共におられ働かれる時代の始まっていることを記念する日です。聖霊は父・子・聖霊の三位一体なる神です。聖霊が降るとは「神は我々と共におられる」という出来事そのものです。昇天される前にイエス様は聖霊を受ける時に力を得ると約束されました。その力とはどんな力でしょうか。不信仰な人を怯えさせる海を割る奇跡でしょうか、あるいは罪人を裁く雷でしょうか。そうではありません。神が救い主イエス様の十字架によって示された最も大きな力は、罪人を救うために独り子を与え、死の滅びから復活させた勝利の力、すなわち絶大な愛の力です。聖霊は私たちにキリストに倣う愛の力を与えてくださいます。これこそ死に勝利した力です。愛は自然なものではありません。キリスト者が愛に生きようとするときに、それは聖霊なる神と共に生き、聖霊なる神の絶えざる助けをいただいて生きることに他なりません。聖霊は愛に生きるために、私たちに神の言葉を悟らせてくださいます。主イエスの言葉を与えてくださいます。そこに信仰が与えられます。聖霊の与えてくださる愛と御言葉に信仰を養われ、キリスト者はイエス様を証しする者となります。その生きる姿がイエス様を示すことになります。そこに教会の歴史がはじまりました。ですからペンテコステは「教会の誕生日」と呼ばれます。私たちとも聖霊なる神は共におられ、働かれています。

2019年06月24日

6/2の創立記念礼拝説教から

創立記念礼拝
ローマの信徒への手紙10章14~17節
「実に、信仰は聞くことにより、しかも、キリストの言葉を聞くことによって始まるのです」(17節)。創立69周年を記念する礼拝に与えられた御言葉です。この箇所の原文には、「始まる」という言葉はありません。「信仰は聞くこと、キリストの言葉を」という文章です。西荻教会は69年の歴史を歩んできました。教会の歴史は礼拝の歴史です。69年間絶えず礼拝を守ってきました。それは、69年間、キリストの言葉をいただき、聞き続けてきた信仰があり続けたということです。人が集まれば、つまずきが見えることがあります。振り返れば失敗と思えることもあります。克服しがたい課題も引き継いでいます。しかし、どんなときにもキリストはこの教会に言葉を与えてくださいました。このキリストの言葉を教会はどんな時も聞き続けてきました。「信仰は聞くこと、キリストの言葉を」、です。ですから、この教会に信仰の絶えたことはなかったということです。教会の歴史は100年であろうと、1000年であろうと、逆に1年の短い教会であろうと、キリストの言葉を聞くことにおいて違いはありません。また、「その声は全地に響き渡り、その言葉は世界の果てにまで及ぶ」ものです。キリストの言葉を聞く信仰者は、キリストの言葉を携えて世界を満たす者です。キリストの言葉を伝える、「良い知らせを伝える者」です。キリストの言葉をこれからも聞き続け、キリストの言葉を運ぶ者としてのつとめを果たしていきましょう。

2019年06月10日

5/26のオープンチャーチ礼拝説教から

コリントの信徒への手紙二 12章9節
定期購読している「みやざき中央新聞」で、紹介されたエピソードをお伝えしたいと思います。
静岡県の内山ほの栞(か)さんはこの春、中学校を卒業した。4月からは少し不自由な足で高校へ通う。
「この足で生まれていなければ…」
ずっとそう思って生きてきた。どうして私がこんな目に遭うのかと運命を憎んだ。中学1年の時の長縄跳び大会が一層その気持ちを強くした。全く跳べない訳ではない。ただ、「自分がチームにいたら記録が伸びない」と思い、自ら参加を辞退した。みんなが長縄を跳ぶ練習を見守っていたほの栞さん。連続回数が更新されるごとに歓声が上がった。その輪の中にいないのが淋しかった。もう一人の自分の声が聞こえた。
「参加したいと言うことはできたのに、足のせいにして参加しないと決めたのは自分ではないか」
それでもやはり足が憎かった。マラソン大会では、スタートラインは一緒でも友人たちはどんどん遠ざかっていく。みんなの背中がうらやましかった。かわいい靴も履けなかった。ますます自分の足を嫌いになった。
中学3年になると、これまで以上に足のことを考える時間が増えた。ある日また考えていたら、ふと心の奥からこんな声が聞こえてきた。
「この足で良いことはなかったの?」
そこで初めて気付いた。
「何かができないで苦しんでいる人の気持ちが分かるのはこの足のお陰なんじゃないか」、「乗り越えようと頑張っている人を誰よりも応援できる気持ちになれるのはこの足のお陰なんじゃないか」、「いつの間にか少し強い心になっているのはこの足のお陰なんじゃないか」(みやざき中央新聞2785号)
自分では変えられないものがあります。この世界には変えようのないものがあります。そこで、気に添わないことを「最悪!」と罵って、目を背けることもできます。けれども、自分の弱さや欠点といった変えられないものに向き合わざるを得ないとき、是非今日の聖書の言葉を思い出してください。
「わたしの恵みはあなたに十分である。力は弱さの中でこそ十分に発揮されるのだ」
これは真理の言葉です。弱さの中で、神に愛される人間が得る恵みの力によって与えられる力があるのです。「キリストの力」、すなわち愛することが始まるという不思議な恵みがあるのです。
19歳で病のために余命1年と宣告された方の文章があります。
「あたしは『いいこ』じゃないよ。時々、他の人が病気になればいいと思ってしまうから…。あたしみたいになればいいと思ってしまうから…。自分の望む結果にならない時や悪くなっている時は、自分だけ神様に捨てられた気がする。そして神様に対して、怒ってしまう。そんな自分がいやになる。」
こういう感じで始まりますが、最後は次のような文章で終ります。
 「当り前と思っていることは全然当り前じゃなくて、その全てが素晴らしいことだと気付いた。世の中に『偶然』ということはなく、全てが奇跡に輝いている。生きているってことは、とっても素晴らしい。病気になって良かった。病気になって、辛いことや苦しいこともあるけれど、色々な考えや思いを、神様にもらっているから。どんな時だって、人よりも楽しめることができるから。どんなちっぽけなことだって、感動することができるから。全てが輝いて見えるから。だから、病気になって良かったって思う。」(山本さちこ著『A7-病が教えてくれたこと』)
弱い自分は相変わらずであっても、昨日と今日が同じでも、私たちの心にイエス様をお迎えするときに新しく見え、気付かされる「恵みの力」は、確かにあります。弱さの中で働く「キリストの力」が、私たちを愛の中に生きる者へとしてくださいます。

2019年06月07日

5/19の礼拝説教から

マタイによる福音書11章7~15節
イエス様は洗礼者ヨハネを時代の大転換点を示した偉大な人物として紹介されます。大転換とは何でしょうか。それは、見たいこと、聞きたいことだけを求めて神さまの救いの御心に目と耳を向けない人々の罪の壁を打ち砕いて、神さまの方が救いを携えて訪れてくださるという新しい出来事の到来です。救い主の到来とはそういう出来事です。「彼が活動し始めたときから今に至るまで、天の国は力ずくで襲われており、激しく襲う者がそれを奪い取ろうとしている」(12節)という言葉はそのことを示す言葉です。天の国、すなわち神さまの救いを奪い取ろうとしているのは誰でしょうか。悪魔ではありません。洗礼者ヨハネやイエス様から、見るべきものを見、聞くべきことを聞いて神さまの救いを得ようと願う人のことです。救いを求める人々が殺到していると言われるのです。しかし、見たい者だけを求め、聞きたいことだけを求める者は、救いを取りに来ないことをイエス様は嘆いておられるのです。「あなたがたが認めようとすればわかること」とイエス様は言われます。今や神さまの救いは近くにもたらされており、隠されていません。それは価なしに神さまからいただくことができます。聞くべきことを聞き、見るべきものを見て神さまの招きを認めさえすれば、救いは与えられるのです。魂に命を得るのです。魂はその豊かさを楽しむことができるのです(イザヤ書55章1~3節参照)。神さまはイエス様をお与えくださり、私たちを熱意をもって天の国、救いへと招いておられます。

2019年05月30日

5/12の礼拝説教から

マタイによる福音書11章1~6節
イエス様の下に、牢に捕われている洗礼者ヨハネの元から弟子たちが遣わされてきました。「来たるべき方は、あなたでしょうか」と尋ねるためです。洗礼者ヨハネは、救い主の到来が近いことを人々に告げ、イエス様が来るべき救い主であることを人々に示した人です。その人が、自分の示したイエス様が、本当に救い主であるのかということに不安を覚えたのです。洗礼者ヨハネは、救い主の到来を迎えるため、人々に悔い改めを激しい言葉で迫りました。何故なら、悔い改めて神さまに立ち帰らなければ、救いにふさわしくない者として救い主に裁かれ、滅びに定められるからです。しかし、救い主であるイエス様はそんなことはなさいませんでした。人々を滅びに定めるようなことは一切なさいませんでした。それどころか罪人を招き、共に食事をし、神の国の福音を告げられました。洗礼者ヨハネが予想していた救い主の姿とまるで違ったのです。このヨハネの問いかけにイエス様は、「わたしにつまずかない人は幸いである」とお答えになりました。これはヨハネを励ます言葉です。洗礼者ヨハネは今、領主ヘロデに捕えられ牢の中にいます。後に彼は牢の中で死を迎えます。彼自身がそのことを感じていたのでしょう。その時に、自分の期待通りでない救い主の姿に戸惑いを覚えたのでしょう。ヨハネの弟子たちがイエス様の元で見たのは、神に立ち帰り、福音の喜びに生きる人々の姿でした。神さまの御心は、罪人を滅ぼすことでなく、赦し救うことでした。

2019年05月24日

5/5の礼拝説教から

マタイによる福音書10章40~42節
伝道に遣わされる弟子たちへの最後の教えです。ここでイエス様が教えられるのは、神さまの気前の良さです。「あなたがたを受け入れる人は、わたしを受け入れ、わたしを受け入れる人は、わたしを遣わされた方を受け入れるのである。」遣わされる弟子たちを、キリストの弟子として受け入れる人は、神さまを受け入れることと同じだと言われます。たとえば、わたしたちが教会へ来るときに自分自身は教会へ来なくても、「いってらっしゃい」と送り出してくれる家族がここに含まれます。イエス様の弟子(キリスト者)であるという理由で水一杯を飲ませてくれるような、ほんの僅かの親切でも神さまは決してお忘れになりません。必ずキリスト者と同じ恵みの報いを与えてくださいます。みんなが神さまに恵みの報いをいただくなら、キリスト者になって何の得があるのだろう、と考えるかもしれません。マタイによる福音書20章で、ぶどう園の主人に神さまは喩えられています。一日中働いた者にも、一時間しか働かない者にも同じ報いを与える主人に一日中働いた人は文句を言いました。しかし主人は答えます。「わたしの気前の良さをねたむのか」(20章15節)。私たちキリスト者も、気前のいい神さまの招きがなければ救いをいただくことはできませんでした。私たちキリスト者の存在は、神さまの気前の良さの証拠です。だから神さまの気前の良さに頼って伝道するのです。それは何とのびのびとした務めでしょうか。

2019年05月17日

4/28 オープンチャーチ礼拝説教から

マタイによる福音書28章5~6節
「復元師」という仕事をご存知でしょうか?東日本大震災の後に、復元ボランティアの活動として紹介されました。復元師は、「亡くなった方に死化粧をして棺に納める」だけでなく、「亡くなった方の御顔を出来るだけ、生前の面影に近く復元する」ことをします。そのことを通して、ご遺族の悲しみを少しでも和らげ、最期に「亡くなった方の最高の面影」を残して、「死」を受け入れ、穏やかなお別れが出来るように、という意味を込めたお仕事です。
 岩手県の遺体安置所で、ある男性の遺体の復元を復元師の笹原留似子さんがお願いされたときのお話です。棺の傍で、小学生の男の子が言ったそうです。「何度見たって、こんなのお父さんじゃない!」
すでに肌の色は変わり、地面に付いていた顔半分と、光が当たっていた顔半分で色が変わっていたそうです。しかも、何かがぶつかったせいで、顔にはいくつも穴が開いていたと…。笹原さんは、お肌に柔かさを戻すために入念にお顔のマッサージを始められました。穴が開いた所には綿を詰め、特殊なパテを塗って形を整え、傷はファンデーションで見えなくし、笑いジワを強調して血色付けを施しました。そうして、にこやかに微笑む優しいお父さんのお顔を復元しました。ご家族を呼ぶと、さっきの男の子が駆け寄って来て、顔をクシャクシャにしながら叫び出したそうです。「お父さんだ、お父さんだ!お父さん、起きてよ!」
復元師のお仕事は、愛する人の亡骸を目にしたご遺族の、「誰か元に戻して!」という悲痛な叫びに何とかして応えようとしています。それは本当に尊いお仕事だと思います。
「誰か元に戻して!」その叫びは、大切な人を亡くした時、自然と心の中から出て来る呻きだと思います。私たちは時に、全く予期しない悲惨な形で「この世のいのちと体」を失うことがあります。それは、地上においては、愛する人との思い掛けない、逆戻りできない別れとなるゆえに、無性に辛く、悲しいことです。しかし、復元師の話を聞いたとき思わされました。イースターの朝、イエス様のお墓に行った人たちも、お墓の中のイエス様のお姿を見て、お別れを受け入れることを願っていたことでしょう。しかし、そこで神さまは思いもかけない希望、「復元」ではなく「復活」を教えられたのです。「復活」は、元の通りになるだけでなく、もはや「失ったり、死んだり、朽ち果てたり」することがありません。それが、聖書が教える「復活」であり、イエス様が自らの「復活」で示してくださった、神さまが私たちに与えてくださった「いのちの希望」です。
「この朽ちるべきものが朽ちないものを着、この死ぬべきものが死なないものを着るとき、次のように書かれている言葉が実現するのです。『死は勝利にのみ込まれた。』」(コリントの信徒への手紙二15章54節)
「死」は、この世のあらゆるものを飲み込んで滅ぼす暴君です。ところが「復活」は逆に「死」を滅ぼして私たちを取り戻す神さまの愛そのものです。「死」から力を奪い取り、「死」が永遠に奪い去ったと思ってたものを、永遠に完璧に取り戻してくれる神さまの勝利です。イエス様は、私たちの罪を赦して救うため、そして永遠のいのちに生かして下さるために、十字架で私たちの身代わりとなって死んで下さいました。ですが、人となられた神、イエス様は、「死」という絶望の闇に閉じ込められたままではありませんでした。ご自分を信じて望みをかける人々に、確かな救いの保障を与えて下さるために、あの日、死に打ち勝って復活してくださいました。十字架と復活を信じる人には誰にでも、同じように復活できる望みを約束してくださいました。
「死」は終わりではなくなりました。「別れ」は人生の結論ではなくなりました。神さまの愛が私たちを捨てず、愛し抜いて十字架に死すら受け入れてくださった神さまの独り子イエス様が私たちを死から取り返してくださいます。

2019年05月04日

4/21(イースター)の説教から

コリントの信徒への手紙一15章42~49節
イエス様は私たちの代わりに罪に対する神さまの裁きをすべて受けて下さり、十字架にかかり死なれました。しかし三日目にイエス様は復活されました。神さまの愛は、死と滅びの中に愛する者を置き去りにされず、死を打ち砕いて復活の命を与えてくださいます。このことを記念し、神さまの救いを喜ぶ日がイースターです。キリスト教会はこのことを伝えてきました。しかし、この神さまの愛の勝利を告げる復活は、信仰無しに受け入れられることはありません。常に世の知識人が、常識人が、知恵ある者が問いかけました。いったいそれはどういう理屈で起こるのか?科学的根拠は?こういった問いは現代に限らず、教会の最初の伝道の時からありました。イエス様の教えや生き方に共感する人でも、復活だけは受け入れられないと公言する人がいました。復活へのそういった問いに対して語っています。復活は朽ちていくものである今の私たちから推測できるようなものではなく、朽ちない全く新しい命をいただくということなのです。それは復活されたイエス様についての聖書の証言から知らされます。復活されたイエス様は触れることができ、弟子たちと食事を共にされました。幽霊ではなく体がありました。同時に、怯えて部屋に閉じこもる弟子たちの真ん中に現れて、平安を告げられました。恐れや悲しみで私たちを閉じ込める壁を超えて、愛を届け、平安を告げられました。私たちにも、この主イエスの復活の命が同じように神さまによって準備されています。

2019年05月01日

4/14の礼拝説教から

マタイによる福音書10章34~39節
私たちはイエス様を信じて人生や人間関係に平安をもたらしてほしいと願います。ところが私たちがイエス様を選ぶ時には、家族ですら敵対すると言われるのです。どういうことでしょうか。この箇所で繰り返される大事なことは「イエス様を選ぶ」ということです。そのことを「自分の十字架を担って」、と言われます。ここを理解するための鍵は、マタイ福音書で初めて登場する「十字架」という大事な言葉です。イエス様が罪人の贖いのために十字架にかかられ、三日目に復活されたことを示す言葉です。このことを抜きにすると、十字架は「苦難」や「痛み」を意味するだけになり、イエス様が言われることは理解しがたくなります。しかし、「イエス様の十字架」を信じ救われた者にとって、「イエス様の十字架」から私たちの担う十字架への理解の鍵が与えられます。イエス様の救いをいただく前、家族であるのと同時に、罪の支配を受けていた私たちは罪人の仲間同士でした。しかし、イエス様に救われて罪人の仲間ではなくなりました。だから敵対されます。その時に、わたしたちはイエス様の弟子としてどのように振舞うのでしょうか。イエス様の十字架に倣って振舞うのです。それが「十字架を担って」従うということです。イエスが十字架であらわされたのは、ご自分を罵り、殺そうとされる人々、敵対するものを愛し抜いたことであり、赦されたことです。イエス様の弟子である者は、人々が自分たちに敵対するときにも、このイエス様の十字架のお姿を見失わず、十字架を捨てずに、赦しの御心に倣い、愛し、赦し、平和を告げるものであることが求められています。そこに命の約束が続きます。

2019年04月22日

4/7の礼拝説教から

マタイによる福音書10章26~33節
平和の福音を伝えに人々のもとに行く弟子たちを励ます主イエスのお言葉です。「人々を恐れてはならない」と言われます。これから弟子たちが出会うのは初対面の人々です。さらに人々は狼に喩えられたように、弟子たちを傷つけ、命を奪う力を持ちます。しかし、それは「あなたがたの父」である神さまの許しがなければ実行することはできないのです。むしろ、魂までも滅ぼすことのできる本当に恐れるべき方である神さまが、あなた方を愛していることを忘れてはいけない、と言われるのです。人々を恐れてイエス様の託された使命を投げ出してはいけないのです。「わたしが暗闇であなたがたに言うことを、明るみで言いなさい。耳打ちされたことを、屋根の上で言い広めなさい」とイエス様は命じられました。人々を恐れることなく、神さまが知らせようとしておられる福音を伝えるのです。イエス様は後に、最も大切なこととして、神さまを愛することと隣人を愛することを教えられました(マタイ22:37~40)。人々を恐れずに、狼のように牙をむいていながら、実は神さまを見失って、「飼い主のいない羊のように弱り果てている」人々を憐み、愛するのです。魂を滅ぼすことのできる方を恐れるとは、神さまを真実に神さまとして重んじるということ、言い換えるならばやはり「愛する」ということです。愛する神さまの願いである救いの知らせを、愛する人々へと伝えることが弟子の使命です。恐れを取り除くのは愛なのです。

2019年04月15日

3/31 オープンチャーチ礼拝説教から

ヘブライ人への手紙12章4節

十字架はキリスト教会のシンボルです。教会の十字架は、救い主であるイエス様が十字架に磔(はりつけ)にされて死なれたという事実を伝えています。十字架は犯罪人に対するもっとも残酷な処刑方法でした。しかしイエス様は、犯罪はもちろん、何一つ罪を犯されませんでした。神様を愛すること、私たち自身を愛すること、それと同じように隣人を愛することを教えられました。そしてイエス様ご自身が私たちを深く愛してくださいました。なぜ、そのような方が犯罪人として、しかももっとも残酷な仕方で処刑されなければならなかったのでしょうか。
 聖書は、イエス様は罪と戦って血を流すまで(死にいたるまで)抵抗されたからだ、と教えています。聖書の教える「罪」というのは、神さまから私たちを引き離して、私たちを悪い道へと誘い、滅びへといたらせるものです。ですから罪と戦うと聞くと、「罪を犯さないように抵抗する」と考えるのが普通ではないでしょうか。罪を犯さずに、正しく生きることが「罪と戦う」ことだと考えます。私たちにとってはそうでしょう。しかしイエス様は罪を犯されたことのない神の独り子でした。イエス様にとって、罪との戦いは私たちとは違いました。私たちの誰も代わることのできない戦いを、十字架の上で血を流して死にいたるまで戦い抜いてくださったのです。どんな戦いだったのでしょうか。
 イエス様の十字架について聖書のイザヤ書53章は次のように記しています。「彼は軽蔑され、人々に見捨てられ 多くの痛みを負い、病を知っている。彼はわたしたちに顔を隠し わたしたちは彼を軽蔑し、無視していた。彼が担ったのはわたしたちの病 彼が負ったのはわたしたちの痛みであったのに わたしたちは思っていた 神の手にかかり、打たれたから 彼は苦しんでいるのだ、と。彼が刺し貫かれたのは わたしたちの背きのためであり 彼が打ち砕かれたのは わたしたちの咎のためであった。彼の受けた懲らしめによってわたしたちに平和が与えられ 彼の受けた傷によって、わたしたちはいやされた」(イザヤ書53章3~5節)。
 イエス様の十字架での罪との戦いは、「身代わりの戦い」でした。十字架は、残酷な処刑です。十字架が意味するのは、人からも神からも捨てられる最も呪われた死に方だということです。神さまは義なる方です。罪を放置することはなさいません。忘れることもありません。しかし神さまが罪を犯したものを罰せられたら、誰一人その罰に耐えられず滅んでしまいます。十字架の上で血を流して苦しまれたイエス様のお姿は、本当は罪人である人間が与えられるべき罰をあらわしています。イエス様は神さまの独り子ですから、そのお力を使えば十字架を逃れることもできたでしょう。しかしイエス様が十字架から逃げてしまわれたら、罪人である私たちが罰を受けなければなりません。神さまの義はどんな小さな罪も見逃しません。私たちは皆、罪に対する神さまの罰を受けて滅びてしまいます。しかし私たちを愛し抜いてイエス様は罪の罰の苦しみの一切を引き受けてくださいました。そうして神さまに対する私たちの罪を清算してくださったのです。これが神さまの救いのご計画であり、それを神の独り子であるイエス様が成し遂げてくださいました。これを教会の言葉で「贖い(あがない)」と言います。
 もう一つは、赦す戦いです。イエス様を十字架にかけたのは、こともあろうにイエス様が救おうと愛された人間でした。しかしイエス様は十字架の上で、血を流しながら、「彼らをお赦しください」と父なる神さまに祈ってくださいました。ご自分をののしり、傷つけ、十字架に磔(はりつけ)にして殺そうとする人々を赦してくださいました。イエス様はご自分を愛する者、慕う者を愛されただけでなく、ご自分を呪い、苦しめる者をも愛し抜いてくださいました。
 イエス様の「罪と戦って血を流す」抵抗は、「愛の戦い」でした。私たちを滅びへとおいやる罪に対して、イエス様は「愛」をもって抵抗されました。そして私たちの救いが与えられました。罪との本当に戦うことができるのは、罪を明らかにして罪人だと判定する掟でも、罪人を根こそぎにする暴力でもありませんでした。イエス様が血を流し死にいたるまで愛し抜いてくださったことが、唯一、私たちを罪のもたらす滅びから解放してくださったのです。

2019年04月11日

3/24の礼拝説教から

マタイによる福音書10章16~25節
イエス様は人々の飼い主のいない羊のように弱り果てている姿を憐れまれました。これからイエス様が遣わす弟子たちは、イエス様の憐みの心を携えて行きます。しかしそこで待っているのは狼のような人々に出会うと言われます。本当の飼い主を迎えなければ滅びてしまう羊であるのに、そのことに気づかず、やって来る羊飼いを噛み裂こうとする狼のような人々の中に遣わすのだと言われます。そこで主の憐みを携え、平和を告げるために「蛇のように賢く、鳩のように素直になりなさい」と言われました。これは、師であり主人である主イエスの歩みに倣いなさいということです。神の言葉に生きる賢さと、神の御心に従う素直さをもって、主イエスはお働きをなさいました。この主イエスのお姿に倣うことが大事なことです。それでも危険を感じたら、「逃げて行きなさい」と教えられます。狼たちの敵意はイエス様に向けられています。やがてこの敵意がイエス様を十字架にかけます。しかし十字架の上でイエス様は赦しを祈られ、飼い主のいない羊のような私たちを救ってくださいました。この主イエスの愛を信じ、お働きに倣うのが弟子なのです。弟子を追い詰め滅ぼすことは御心ではありません。救いをもたらすのは神さまであることを信じて、私たちは為すべきことを為し、後を神さまに託す素直さをもって次の町へと平和を告げに出ていくのです。全部の町を回りきらないうちに、逃げ出した街にもイエス様の救いが訪れるから、心配しないで逃げなさいと言われるのです。

2019年04月08日

3/17の礼拝説教から

マタイによる福音書10章5~15節
イエス様が弟子たちに伝道の心得を教えておられます。まず、弟子たちが向かうのはユダヤの町や村です。ここは9:35に「イエスは町や村を残らず回って」とあるように、既にイエス様が訪れておられる場所です。伝道はいつもイエス様が先に赴いてくださった後に続いていくものです。そしてそこでイエス様に倣って活動します。9~10節に旅支度をしないように言われるのは、伝道について神さま以外の力に頼るなということです。神さま以外の物を数えて伝道の可能性を探ってしまう誘惑は最も大きいものかもしれません。殆どの場合、「足りない」と感じて伝道が始められなくなります。しかし伝道の備えは当然神さまがしてくださっているのです。それを信じていくことが一番大切なことです。11節に言われている「よく調べ」というのは、訪れた土地をよく見て、愛しなさいということに通じます。一見して良い悪いと決めつけず、よく調べて福音の基地を見いだしなさいということです。伝道は裁くためにするのではありません。どんな町や村、どんな人にも「平和があるように」と祈ることです。しかし、それでも迎え入れてもらえずに伝道がうまくいかないと感じることがあるでしょう。そんな時は足の塵すら落として、未練を持たずに去って行きなさいと言われます。伝道は私たちの力量を問うテストではありません。神さまの御心の実現です。ですからうまくいかないことも御心です。神様の救いの決意を信じて去って行けと言われます。

2019年03月25日

3/10の礼拝説教から

マタイによる福音書9章35節~10章4節
イエス様は「群衆が飼い主のいない羊のように弱り果て、打ちひしがれているのを見て、深く憐れ」ました。「深く憐れむ」という言葉は、聖書では神さまの「憐れみ」の心をあらわす時にだけ使い特別な言葉です。「はらわたが痛む」という意味で翻訳されたこともありました。単に「かわいそうに思う」のではなく、深く愛するあまり自分のはらわたを捻じられるような痛みを感じる程だったということです。「深く憐れまれた」というのは、「愛された」ということを言い換えているものです。ヨハネ福音書3章16節に「神は、その独り子をお与えになったほどに、世を愛された。独り子を信じる者が一人も滅びないで、永遠の命を得るためである」とあります。打ちひしがれた者を一人も滅びに渡さないために、深い憐みのゆえに神様は最も大切なイエス様を与えてくださったのです。群衆はいつも俯いて生きていたわけではないでしょう。仕事をし、家族を守ろうと生きていたはずです。しかしどんなに元気に見えても、「飼い主」である神さまを見失ったままでは滅びてしまいます。イエス様は彼らのための働き手を求めるように神さまに願うことを弟子たちに命じられました。収穫のための働き手というと、まず牧師が考えられるでしょう。あるいは教会の奉仕者もそうでしょう。イエス様の深い憐みをいただき、十字架の救いを与えられた私たちは、イエス様と共に弟子として働き手が与えられることを祈り願うのです。

2019年03月25日

3/3の礼拝説教から

マタイによる福音書9章32~34節
福音書には悪霊にとらわれた人々が登場します。今では医学の知識が増したことから様々な病として理解されることの多い「悪霊」ですが、その特徴は「神を失わせる」ことです。それが病との違いです。今日の箇所では、悪霊のために口をきけなくされている人が記されています。神の救いを求める声を奪われているのです。その人をイエス様が悪霊から解き放って癒してくださいました。一人の人が悪霊の支配から神さまの元に取り戻されたのです。これは大きな喜びです。しかし、それを目撃した人々は、喜びを共にすることができませんでした。多くの人々はただ「すごい」と驚き、ファリサイ派は悪霊のかしらの力で悪霊を追い出していると非難を始めました。神さまと共に喜ぶことができず、驚くだけであったり批評するばかりであった人々が、後にイエス様を十字架につけます。本当に驚嘆すべきことは、たったひとりの人のためにも神さまが心を込めて近づいてくださり、病を癒し、悪霊を追い出し、死すら退けてくださる「憐れみ」を向けてくださっていることです。神さまが一人一人の願いに振り返って耳を傾けてくださり、優しく「元気になりなさい」と声をかけてくださり、家に招き入れ、悪霊から取り戻してくださるのは驚くべき「憐れみ」です。こんなにも神さまに私たち一人一人が愛されていることこそ「起こったためしがない」驚くべき出来事です。この深い「憐れみ」を知る時、神さまと喜びをも共にすることができます。

2019年03月25日

2/24のオープンチャーチ礼拝説教から

イザヤ書40章31節
若さや力に溢れた者も、必ず疲れてつまずいて倒れてしまうものだ、と聖書は教えます。日本そうじ協会理事長の今村さんという方がご自身の経験をお話しされています。今村さんは不登校の子を対象にした塾をされていました。不登校の子どもたちに夢や希望、目標を与えればいいだろうと勝手に思い込んでいました。しかし入塾しても次の日には子どもたちは塾にやってきません。そこで家庭訪問をはじめて気が付いたことがありました。それは、例外なく子どもたちの部屋が散らかっているということでした。窓を開けないので散らかったゴミからひどい匂いがしています。そこで今村さんは生徒を誘って一緒に部屋の掃除をしました。するとみるみるうちに子どもの表情が明るくなっていくのを感じました。不登校の子たちは、何年間もゴミだらけの部屋にこもり、部屋にたまったゴミから「お前はだめな人間だ」と囁かれ続けてきたのだと今村さんは言われます。完全に倦んで、疲れ切った心に夢や希望、目標は抱けなかった。そんな中で全人格の否定を囁くゴミを一緒に掃除をして取り除けたことがとても大きなことになったのでした。聖書は、罪の重荷が私たちを疲れさせると教えます。その罪の只中に神さまは救い主としてイエス様を送ってくださいました。そしてイエス様の十字架によって罪を取り除いてくださいます。この神さまの愛をいただいた者を、風を受けてずっと高いところを飛ぶ「鷲のよう」だと語っています。

2019年03月25日

2/17の聖日礼拝説教から

マタイによる福音書9章27~31節
信仰は、私たちの求めと、救い主であるイエス様と出会うことで成立します。私たちが熱心だけの問題ではありません。二人の盲人がイエス様に「ダビデの子よ、わたしたちを憐れんでください」と叫びました。イエス様はすぐにお応えになりませんでした。「ダビデの子」という呼びかけは、救い主を指す言葉の中でイエス様が避けられた呼び方です。それは、「ダビデの子(偉大なダビデ王の子孫)」という言葉が、ダビデ王家による正当な支配の再来を期待する意味が強かったからです。ダビデ王のように神の民を脅かす世の権力者を倒して、ユダヤ人が力をもって支配するという意味を含んでいました。私たちは人を様々な権威を元に判断します。その人自身を知るより先に、その人がどんな肩書を持っているかで判断します。イエス様は「ダビデ」によって権威を与えられることを避けられました。確かに救い主は預言によってダビデの家系に生まれました。しかしそれは罪の歴史を担ってくださるためです。イエス様に権威を与えるのは父なる神のみです。そして父なる神の御心は、敵を滅ぼすことではなく、敵を愛することでした。そのためにイエス様は十字架にかかってくださったのです。この神さまの愛がどんな肩書にもよらず、まことに「イエス」という方にむき出しになっているのです。このイエス様と出会い、「主よ」とお応えするところに信仰があり、救いがあります。二人の盲人も肩書を離れてイエス様に出会って、「はい、主よ」と応えて癒しをいただきました。

2019年02月26日

2/10の聖日礼拝説教から

マタイによる福音書9章18~26節
イエス様の病と死を退けられた大きな奇跡を伝える箇所です。この出来事を通してマタイ福音書は「信仰」について教えています。12年間患っていた婦人はイエス様から「あなたの信仰があなたを救った」と言われました。この婦人の信仰の何が奇跡を呼び、病を癒したのでしょうか。信仰を問う時に私たちは信仰を大きい、小さい、重い、軽い、深い、浅いと表現します。これは信仰を「熱心」と同じように考えているからです。私たちの心が燃えていると信仰があり、神様への疑いが起こると信仰が失せてしまう。そんな風に考えます。しかしこれは独りよがりの世界です。マタイ福音書は、信仰は求める「私」と応えてくださる「主」との出会いの出来事だと語ります。娘を失くした指導者が救いを求めます。それに神の子である救い主がお応えになりました。12年間患っていた婦人は癒されることを求めました。この婦人の願いに振り向いて応えてくださる神の独り子である救い主がおられます。マタイ福音書は、主イエスがお応えくださった後に「治った」と記します。救いをもたらす信仰は、私たちの求めに愛をもって応えてくださる方がまことにおられることで成り立ちます。決して独りの事柄ではないのです。神様が共にいてくださることで成立するのが信仰です。娘を失くした指導者も病の婦人も熱心に信じました。しかし、熱心であることに力があるのではありません。救いを熱心に求めてやまない者の声に、神は無関心ではないことが信仰を支えています。振り返り声をかけ、足を運び、手を置いてくださる慈しみの主イエスが「私の信仰」の「土台の岩」(マタイ福音書7章25節)です。

2019年02月21日

2/3 聖日礼拝説教から

マタイによる福音書9章14~17節
洗礼者ヨハネの弟子たちが「なぜ断食をしないのか」と質問をしました。徴税人や罪人と食事を共にして、断食をしないイエス様と弟子たちのことが理解できなかったのです。洗礼者ヨハネは、救い主の到来を告げた人物です。そして救い主を迎える前に罪を悔い改めるように迫り、罪の悔い改めのしるしとして洗礼を行いました。救い主の到来は、同時に神様の裁きの到来と理解していたからです。罪を裁く神様が来られる前に、神様に滅ぼされないように悔い改めて、裁きに耐えられるようにしなさいと教えたのです。彼らにとって、神様は裁きの神であり、恐ろしい神様に自分はこんなに一生懸命に罪を悔い改めていますと示すのが「断食」でした。しかし、実際に来られた救い主がお示しになったのは、私たちを救う神様でした。私たちを愛し抜いておられる神様でした。そのために神様の独り子をお与えくださり、私たちの罪を十字架で贖ってくださる救い主でした。私たちを滅ぼすことをしないと決意された神様の愛が到来したのでした。このことを「花婿」の到来に喩えています。神さまは罪人を滅ぼしに来られるのではなく、罪人を愛する花嫁を迎えに来た花婿のように迎え入れてくださる方として、教えてくださいました。婚礼の時は喜びの時、祝いの時です。その時に断食をするのはおかしいことです。イエス様は、救い主の到来は私たちにとって恐れるべきことではなく、喜ばしいこと、それも最高に嬉しいことだと教えられました。しかし、この喜びを真実にいただくために、私たち自身も新しくなる必要があります。それもイエス様を信じる信仰という恵みの賜物として与えられます。

2019年02月14日

1/27 オープンチャーチ礼拝説教から

マルコによる福音書4章38節

クリスチャン(キリスト者)の生き方や信仰は、時にそうでない人には不思議に見えるようです。例えば、クリスチャンはこう信じています。普通ならば、「神さまがいるなら、苦しみはないはずだ」という代わりに、「痛み苦しみのあるところに、救い主はおられる」と言います。
東日本大震災の時に起こった福島第一原発の事故。この原発から5㎞の距離に福島第一バプテスト教会という教会がありました。事故の後、教会の近隣の方々と共に流浪して奥多摩まで教会は避難しました。この避難する人々をリードして来られた佐藤彰牧師が、自分たちが流浪の教会にならざるを得なくなったことをとおして、初めて、「神さまが共におられる」という聖書の約束が心の底に落ちてきたと言っておられます。残念ながら、私たちはごく平凡な生活の中では、神さまが私たちと共におられるということの意味を心の底から味わうということができない、鈍い心があります。福島第一原発で作業しておられる方のご家族が幾組も、佐藤先生の一行とともに避難しておられました。夫たちは家族のことを思い、仕事を捨てて一緒に逃げることも考えたそうです。しかし教会の輪の中にいる家族を見て、困難の中で逃げる家族と神さまが共にいてくださることを信じて、過酷な現場に向かったそうです。そして教会は、何人ものそのような方々を、神さまの「わたしはあなたと共にいる」という聖書の約束の言葉を朗読し、涙を流して、被爆の大きな危険をはらむ作業場に送り出しました。原発に関しては様々な意見がありますが、現在の放射能漏れを防ぐために、身の危険を侵してでも現場で作業する人が必要なことは明らかです。私たちの人生に必要な知恵は、人生を襲う嵐を避けることよりも、嵐の中でも、なすべき責任を果たし、命の道を歩むために本当に大切なものを知っていることではないでしょうか。
イエス様と弟子たちが乗った舟が嵐に遭い、今にも沈みそうになった時、イエス様は枕をして眠っておられました。舟が波をかぶって、水浸しになっているのに眠り続けることができるというのは不思議です。そこには深い安心感が見られます。ところが、そのとき、生まれながらガリラヤ湖に親しんできている漁師のペテロをはじめとする弟子たちが、あわてふためいて、「イエスを起こして、『先生わたしたちがおぼれてもかまわないのですか」と訴えます。普通ならば、漁師である弟子たちの方がイエス様を気づかってしかるべきなのに、逆だったのです。興味深いのは、イエス様がともにおられながら、プロの漁師の目にも、舟が沈没寸前になってしまったということです。プロの目で判断して、もうダメだ、という状況があります。そういうことは起こるのです。イエス様が一緒に乗っておられても、そうしたことが起こっているのです。こういう話を聞くと、それでは、「神を信じて、何になるのだ」と思う人もいるかも知れません。確かに、自然災害や事故や病は善人も悪人も問わずに襲ってきます。教会やクリスチャンだけは遭わないという約束は聖書の中にはありません。しかし、その代わりに神さまが何度も何度も、時代を超えて幾度も与えてくださる約束がその苦しみや困難の中で「わたしはあなたと共にいる」という約束でした。
沢山の迫害を受け、幾度も絶望を経験してきたユダヤの人々の伝えてきた言葉にこういうものがあります。「死ぬこと(諦めること)は明日でもできる。だから、今日しかできないことを今日しよう」と言う言葉です。これが神さまの約束を信じている者の生きる知恵だと教えています。救い主であるイエス様ご自身が、十字架にかけられて殺されるという苦しみの極みを負ってくださいました。しかし、神さまは三日目に死人の中からイエス様を復活させられました。最も深い苦しみの底でも、神さまの約束はあることを示してくださいました。だから、「神のおられるところ、苦しみはない」という代わりに、「痛み苦しみのあるところに、救い主はおられる」と言うようになりました。

2019年02月02日

1/20 聖日礼拝説教要旨

マタイによる福音書9章9~13節
徴税人は税金を集める者たちでしたが、今日の税務署とはまるで違います。彼らはローマ帝国に代わって同胞から税を集めていましたが、自分たちの利益を得るために必要以上の金額を同胞から奪うことをしていました。そのため、人々から同胞を売り渡す罪人と見なされ、徴税人自身も罪人として生きることに開き直っていました。収税所に座っているマタイはまさしく罪の中に座り込んでいる人の姿です。そのような生き方をしていた徴税人マタイをイエス様は見られました。この箇所は、「マタイという人間を見た」という文章で書かれています。そしてイエス様が声をかけられるとマタイは「立ち上がって」イエス様に従いました。福音書はマタイの徴税人になった背景や心情を記していません。罪の中に座っている人を救うのは、それらの事情ではなく、救い主が見、罪の中から呼び出してくださるという「神の御業」によるからです。神さまの救いの御業によってマタイは罪から解き放たれて、立ち上がって従ったのです。その後、マタイや彼の友人であろう罪人たちと食事を共にしているイエス様をファリサイ派の人々が非難しました。彼らはいけにえを熱心に捧げ、律法を守る自分たちの正しい生き方こそ救いを得る手段だと理解していたからです。しかし、救いは神さまのご決断によるものです。そのことが分かると、罪人の中の罪人と言うべき徴税人が神のもとに取り戻されたことを喜ぶ神さまと憐みの心を共にして生きることができます。それこそ神さまが喜ばれることなのです。

2019年01月28日

1/13 聖日礼拝説教要旨

マタイによる福音書9章1~8節
イエス様が中風の人を癒してくださった話について、マタイ福音書は大胆にエピソードをカットして、読む者をイエス様へと集中させます。そこでマタイ福音書が中心としたのは、「人の子が地上で罪を赦す権威を持っている」ということです。私たちの罪を赦すことがおできになるのは唯一、「神」だけです。その意味で、イエス様が罪の赦しを告げられた時に律法学者が心の中でイエス様を非難したことは、おかしなことではありません。しかし、この非難を超える事実がここに起こったのです。それが、「神が人として地上に来ておられる」という事実です。主イエスは、罪を赦す権威を持つ真の神の子であることを福音書は知らせています。そして、最後の人々の驚きも、マタイ福音書は「人間にこれほどの権威をゆだねられた神を賛美した」と記しました。この罪の赦しの権威を神は「人間にゆだねられた」と言うのです。これは主イエスの御名によってたてられる教会を意味しています。「罪は赦される」と言うのと、「起きて歩け」と言うのとどちらが容易いか、とイエス様は問われました。「起きて歩け」と言うことのできる賜物は主イエスや教会以外にも与えられています。例えば医者はまさしくそうです。「起きて歩け」というのに神の奇跡である必要はありません。今日のように医療が進歩した中ではなおさらです。しかし、「あなたの罪は赦される」という約束の言葉は、教会にゆだねられた神の権威です。これは他にはない唯一の福音の言葉であり、救いの言葉です。教会は神の子、主イエス・キリストの「罪の赦し」を世に明らかにする権威と使命を委ねられています。

2019年01月19日

1/3 新年礼拝説教要旨

詩編37篇23節
今年度与えられた年間標語聖句は「主は人の一歩一歩を定め 御旨にかなう道を備えてくださる」です。年の初めに目標や希望を抱いて歩み始めます。私たちはそのゴールを目指して祈りつつ歩みます。その一歩一歩を創造し、与えてくださるのは神さまです。神さまが、私たちへの愛をもって一歩を定めてくださいます。すごろくのように、ある一歩は「休め」という一歩かもしれません。あるいは、それまで積み重ねてきた努力が台無しになるような失敗の一歩かもしれません。振り出しに戻るような出来事が待ち構えている一歩かもしれません。しかし、どのような一歩も神さまの御旨に適わない一歩はありません。サイコロで偶然に与えられるものではありません。必ずそれは愛をもって私たちを導かれる神さまの御旨によって与えられる一歩です。神さまは私たちの一歩を定めてくださり、またその一歩を共に歩んでくださいます。私たちの歩幅にあわせてくださり、私たちが一歩を踏み出すことができずに立ち止まる時に励まし、担ってくださいます。このような神さまが必ずおられることこそ、幸いの源です。この神さまと共に歩む一歩一歩の幸いを生きるときに、私たちを神さまの恵みの御旨から離すことがあります。それは人の成功を羨むことです。特に、神を神とも思わず、人を人とも思わないような者が栄え、成功するように見えると、私たちは苛立ちます。それは羨むからです。神さまこそ私たちの元から離れることのない恵みと幸いの源です。そのことを信じて、この年も神さま共に一歩一歩を定めていただき歩みましょう。その一歩を神さまは心から喜びとしてくださいます。

2019年01月12日

12/30 オープンチャーチ礼拝説教から

マルコによる福音書2章22節

「新しいぶどう酒は新しい革袋に」という言葉は、聖書由来のことわざとして日本でも使われます。新しいぶどう酒とは、盛んに発酵している状態のものです。当時は酒を革袋に入れて運んだそうです。その際に、盛んに発酵している新しいぶどう酒を、弾力を失って固くなった古い革袋に入れると敗れてしまいます。そこから、「新しいことを始めるには新しい発想や方法、組織や仕組みが必要だ」という意味のことわざになりました。最近は特に金融経済の専門家が盛んに使っています。
「ソウル・サーファー」という映画があります。主人公は、ベサニー・ハミルトンという実在の少女の自分の体験を記した本が原作です。ベサニー・ハミルトンは本を書いた時点で14歳でした。プロのサーファーを目指す、サーフィンの大好きな少女でした。その腕前は大会で優勝し、既にスポンサーがつくほどでした。13歳の時のことです。ある日、友達といっしょに海にサーフィンに出かけました。サーフボードに腹ばいになり、海に浮かびながら大きな波の来るのを待っていました。その時、左側から近づいてくる灰色の大きな物体にハッとしました。それは巨大なサメだったのです。サメは、サーフボードに乗っていた彼女の左腕を、サーフボードごとかみちぎりました。肩まで食いちぎられました。近くにいた仲間の協力で岸まで戻ろうとしました。しかし岸まで400メートルもありました。大量に出血し、死ぬかもしれない。その時、「お願い神さま、わたしを助けて下さい」と繰り返して祈ったそうです。そうして、浜につくまでの15分間、「死ぬかもしれない」という恐れが、祈りによって「わたしは神さまによって守られている」という思いになったそうです。彼女は、体の半分の出血をし、左腕は肩から先を失いました。救急車が来るのが永遠に長い時間に思われたそうです。救急車が来て、救急隊員が手を握り「神さまは決して君を見捨てないよ」とささやいたそうです。御言葉をくださいとお祈りしたら、旧約聖書の1節が与えられた。 「わたしは、あなたのために立てた計画をよく心に留めている、と主は言われる。それは平和の計画であって、災いの計画ではない。将来と希望を与えるものである」(エレミヤ書29:11)。
やがて彼女にマスコミが注目するようになりました。彼女は本の中で述べています。「わたしは、サメに襲われたことを大げさなメロドラマに仕立てないように気をつけている。それよりも焦点を当てているのは、わたしがそれまでの人生から拾ったかけらの数々を、以前とは違う新しい自分のパーツに合わせていることだ。言わば神さまは、つかの間限りの世界の注目を与えてくれたのだ。できるだけ役に立つように活用した方がいい。」実際、 サメに襲われ、腕を失ったことはずっと彼女を苦しめ続けました。「でも、わたしには土台となる硬い岩がある。それは、神さまがわたしを愛してくださり、どんなサメにももぎ取られないわたしの人生の計画をお持ちだと信じることだ。」と彼女は述べています。 (「ソウル・サーファー」ベサニー・ハミルトン著)
この14歳の少女から多くの人に励ましと希望が伝えられました。彼女自身が語っています。これは彼女が立派であるとか、偉いということではありません。彼女と共に生きて下さっているキリストが素晴らしいのです。新しい救いをもたらす方なのです。彼女を生かし、立ち直らせ、希望をお与えになったのがキリストでした。
今年の漢字は「災」だそうです。今年のあなたはどうでしたか?あなたは何をしてきました?きっと、あなたも他の人も、あなたの古いあなたを見て、あなたを判断しようとします。けれど、キリスト共にあるなら、あなたまでそういう見方であなたを判断しては間違えます。あなたを訪れるキリストの恵みは新しいのです。様々なものを「災」と見てきたかもしれません。しかし、キリストの到来は新しいのです。新しい革袋となってその恵みを溢れるほどに注いでいただきましょう。

2019年01月09日

12/24 クリスマスイブ燭灯礼拝説教要旨

ルカによる福音書2章14節
礼拝堂に入られる際に、馬小屋を飾ってあるのをご覧になりましたか。地味な馬小屋です。クリスマスの馬小屋、そこには、マリアとヨセフがいます。羊飼いやヒツジがいます。牛やロバもいます。決して綺麗ではない馬小屋です。冷たい風が吹いてくるかもしれません。赤ちゃんを産むことのできるような場所ではありません。生まれてきた赤ちゃんを洗ってあげる温かいお湯はあったでしょうか。赤ちゃんの寝る暖かなベッドがあったでしょうか。馬小屋にはそんなものはありません。
どうしてかと言うと、お腹の大きなマリアを、誰一人わたしのお家に泊まってと言わなかったし、赤ちゃんイエス様がお生まれになるのに、誰一人暖かな家へどうぞとは言いませんでした。長い旅を続けてきたマリアとヨセフを暖かく迎えてくれる人はどこにもいませんでした。「どこの誰か判らないあの若いお腹の大きな二人連れのことなんて知らないよ」そんなふうに思ってしまう人間の冷たい心、それがベツレヘムの馬小屋には見えてきます。クリスマスの馬小屋を見つめるときに、わたしたちが気付くことというのは、決して人間の暖かな心とか、美しい光景ではありません。自分のことばかり考える人間の姿が見えてきます。
でも、そこを選んで神さまの独り子であるイエス様はお生まれになりました。そういう人間の罪、冷たさ、人のことを何とも思わない自分中心的な心、まして神様の御子イエス様をお迎えする気持ちなんてどこにもない、そういう人間の罪の只中に、イエス様はお生まれになったのです。そこにこそ、救い主のお誕生が必要だったからです。
わたしたちの心は、それはこの馬小屋のようなものです。それは決して立派な、暖かい、綺麗な部屋ではありません。気がつくといつのまにか隣にいるあの人この人のことよりも自分のことばかり考えている。そんな馬小屋のような心です。そこにイエス様は生まれたいと望んでくださったのです。そしてイエス様がお生まれになった時に、変わるのです。馬小屋が立派なお城に変わるわけではありません。しかしそこにイエス様が来てくださることで、変わるものがあるのです。
イエス様のお誕生を伝える劇を聖誕劇と言います。先日幼稚園のクリスマス会でも聖誕劇をしました。聖誕劇について、こんなお話が伝わっています。
アメリカのある村に小さな教会がありました。クリスマスの日にはイエスさまの聖誕劇を子どもたちがすることになっていました。子どもたちに役が割り当てられ、ある男の子が宿屋の役をすることになりました。セリフはーつ、「だめだ。部屋がない。」そして、うしろの馬小屋を指さすのです。男の子はよろこびました。「ぼくもイエスさまの劇に出るんだ。ぼくだって、劇に出るんだ」「だめだ。部屋がない」男の子はー日に何十回も、何百回もくりかえして練習をしました。そして待ちに待ったクリスマスの日がやってきました。プログラムが進んで、いよいよ子どもたちのクリスマス劇です。長旅で疲れ果てたヨセフとマリアが、とぼとぼと歩いて、ベツレヘムにやってきました。そして、あの男の子が立っている宿屋にたどりつきました。「すみません。私たちをー晩とめてください。」男の子は、大きな声でいいました。「だめだ。部屋がない。」それから、馬小屋を指さしました。「よかった。じょうずにできた。」その直後のことでした。馬小屋にむかって、肩を落として歩いていくヨセフとマリアを見送っていたその男の子が、突然、ワァッと声をあげて泣き出したではありませんか。男の子は走り出しました。そして、泣きながらマリアさんにしがみつきました。「マリアさん、ヨセフさん。馬小屋に行かないで。馬小屋は、寒いから。イエスさまが風邪を引いちゃうから、馬小屋に行かないで。僕の部屋においでよ。」劇は、しばし中断してしまいましたが、誰も腹を立てたりしませんでした。それどころか大人たちは見失っていた美しいものを見た喜びで満たされたそうです。 〔「涙のち晴れ」(いのちのことば社)から抜粋〕
「地には平和、御心に適う人にあれ」と天使は歌いました。「御心に適う人」という言葉は「神が好意をもって下さっている人」、「神が愛して下さっている人」ということです。神様は、私たち全ての者を愛して下さっているのです。どうしてそのように言い切ることが出来るのか。それは、神様の独り子イエス・キリストがベツレヘムの馬小屋で人として生まれ、そしてキリストは、私たち人間の全ての罪を背負って、身代わりとなって十字架にかかって死んで下さったからです。本来神の心に適うはずのない私たちの救いのために、神の子イエス・キリストが身代わりとなって死んで下さって、私たちの罪を全て赦し、私たちが神に愛されている子として新しく生きることができるようにして下さったのです。私たちはあの男の子のように今度はイエス様を「僕の部屋へ来て」とお招きする愛をもって神様に応えることができるのです。また、愛を隣人に向けるとき「平和」が私たちの間にあらわれることでしょう。

2018年12月28日

12/23 クリスマス礼拝 説教要旨

ヨハネによる福音書1章14~18節
クリスマスの意味をヨハネによる福音書が記した箇所です。「言は肉となって、わたしたちの間に宿られた」というのは、神さまが人となってくださったことを表現しています。神さまは愛のゆえに私たちを救うために来てくださいました。しかし神さまがそのままに私たちに近づかれたら私たちは耐えられません。そこで私たち同じ人となってくださいました。神さまの愛のご配慮です。こうして主イエスがお生まれになりました。それを「栄光を見た」という言葉で表現しています。「栄光」は「光」ということです。1:5にこの光を「光は暗闇の中で輝いている」と伝えています。暗闇は罪の暗闇です。罪の暗闇の中にいる私たちは思い思いに光を掲げて行く手を探り、救いの道を知ろうとします。それは律法であり、知識や経験の光かもしれません。力や知恵かもしれません。あるいは友情や愛情かもしれません。しかし私たちの掲げる光では神を見ることはできないのです。必要なのは、目指すべき所から差し込んでくる光です。その光が神さまを教えてくれます。神の子であるイエス様こそ光です。私たちが思い思いの掲げる光を置いて、この天からの光である救い主イエス・キリストに目を向けると、そこに神さまが待っていてくださいます。しかも、イエス様は十字架にかかって天への道を拓いてくださいました。イエス様によって神さまのふところに近づく道を与えてくださったのです。この溢れる恵みをもたらされる救い主がお生まれくださったのです。

2018年12月28日

12/16 説教要旨

マタイによる福音書8章28~34節
 向こう岸でイエス様を待っていたのは悪霊でした。向こう岸は神の国を喩えています。神の国は神のご支配の中にあります。イエス様が来られたことで悪霊が滅び、神の支配が明らかになりました。ここも神の国となったのです。悪霊とは何かについて明確に説明することはできません。それらは神から私たちを引き離し、悪を行わせること、神の御力によらなければ悪霊から解放されないことが聖書に記されています。ここで悪霊たちは神の子であるイエス様から逃げられないと悟ったのでしょうか、自分たちからイエス様のところに来て見逃してくれるよう懇願します。彼らはやがて自分たちは神に滅ぼされることを承知していますが、その時はまだ来ていないはずだと言うのです。イエス様のことを神の子と正確に理解していますが、しかし悪霊の本性は神を侮ることです。神の救いを「まだ」と決めつけているのです。これは神を侮ることです。しかし、私たちも救いは「まだ」と侮ることがあります。もっと学んでから、もっと清い生活ができるようになってから、と自分たちで救いの時を決めようとします。それはこの悪霊の言い分に似ているのです。悪霊の滅びを定めるのは「時」ではなく「神」です。救いの日を与えてくださるのは神です。だから、神の子であるイエス様は悪霊の言い分に屈しません。神の子が二人の悪霊につかれた男たちを取り戻すために、「今」ここで悪霊を滅ぼすとお決めになられたのです。悪霊は豚に逃げ込んで助かろうとしますが、豚と共に死んでしまいました。人間の手には負えなかった悪霊も、私たちを愛する神の子、イエス様には全く手も足も出ないのです。

2018年12月21日

12/9 説教要旨

マタイによる福音書8章23~27節
 イエス様が嵐を鎮められた話はマタイ福音書以外の福音書にも記されています。マタイ福音書はこの話を「向こう岸」へと弟子たちを送られ最後にイエス様が船に乗られたあとすぐに嵐が起こったように記しています。船に乗る弟子たちは神の国に招かれた者たちです。彼らを救いから遠ざけようとするものが「激しい嵐」に喩えられています。嵐の中で弟子たちは「主よ、助けてください」とイエス様に助けを求めます。私たちも困難に出会う時、苦しみの時、必死に助けを求めて祈ります。神さまに助けと憐れみを求めて祈ります。そんな時、イエス様はどうされていたでしょうか。眠っておられたのです。なぜなら父なる神さまを信じ抜いておられたからです。私たちを愛しておられる神は、私たちの苦しみを見逃すこともなければ、苦しみの中から救ってくださらないはずがない。だから安心して眠っておられたのです。ここに信仰があります。イエス様は失われた私たちを探し出し、向こう岸である神の国へと導いてくださいます。それは私たちが強い信仰をもって神さまにお応えしたからではありません。むしろ私たちの信仰は、こちら側に残る人々と何の変りもないほどに「薄い信仰」です。けれども一つだけ大きな違いがあります。それは、私たちの向こう岸への航海には、最高の信仰をもつ神の独り子、救い主であるイエス様が一緒にいてくださるのです。だから薄い信仰のままでいいというのではありません。イエス様をお手本にして信仰を学びます。けれども約束してくださった神の国の救いはイエス様が一緒にいてくださるから、どんな嵐も妨げることはできないのです。

2018年12月21日

12/2 説教要旨

マタイによる福音書8章18~22節
 イエス様は群衆と「弟子」を区別されます。ファンである者と「弟子(キリスト者)」は違うのです。そのことが弟子に「向こう岸に行くように命じられた」ことにあらわれています。向こう岸は「神の国」を暗喩しています。この世から、向こう岸の神の国に居場所を変えられた者が「弟子」です。弟子はイエス様ご自身が探し出して神さまのもとへと連れ戻した者たちです。ここに主イエスの大切なお働きがあります。福音を告げ、病を癒し、そして「弟子」を探し出されたのです。そこに自分から進んで弟子になりたいと申し出た律法学者がいました。しかしイエス様は、彼の願いが向こう岸ではなくこちら側にあることを見抜いておられました。また、弟子が父の葬りを願い出たとき、「わたしに従いなさい」と言われました。私たちにとって向こう岸にわたるとは「洗礼」を意味します。その時に、様々な心配が私たちをこちら側に残そうとします。しかしイエス様は厳しいほどの言葉で、まずあなたは「従ってきなさい」と言われます。まず向こう岸に、神の国に居場所を得なさいと言われるのです。死を嘆くことは死に支配されている者に任せればいい。しかしそこに神の国の命の福音を携えてあなたは行かなくてはいけない。だからまず、「わたしに従いなさい」と言われるのです。信仰を持つとは、神無きものであった私たちが、神と共に生きるものとなるということです。死を打ち破る神さまが私たちに与えられるのです。

2018年12月10日

11/25 オープンチャーチ礼拝説教

来週の日曜日から教会は「アドベント」と呼ばれる期間になります。クリスマスを迎えるための準備の期間です。

ハロウィンが終わると、お店は一晩でクリスマスのデコレーションに変えられます。アメリカではデパートや小売業の年間売り上げの4分の1はクリスマスの時期にあるということです。それだけ商売にも力が入ります。けれどももちろん、アドベントはクリスマスの気分を盛り上げるためにあるのではありません。アドベントは「到来」という意味の言葉です。アドベントの一日一日を重ねるごとに、「救い主は到来された」という信仰の喜びと感謝をより深く心に刻み、神さまを礼拝しよう、と呼びかける期間です。

救い主の到来は、私たち人間が熱心に求めたからではありません。旧約聖書のイザヤ書に、救い主の誕生を告げる預言の言葉があります。そこには、「主の熱意がこれを成し遂げる」と書いてあります。「主」とは神さまのことです。神さまの私たちへの愛の熱意が救い主を送ってくださいました。この方によって私たちを罪と滅びから救うためでした。そのために愛する独り子を人として生まれさせてくださったのです。

世の中は、闇が覆っていると思えるようなことが沢山あります。戦争があり、飢えがあり、病があり、犯罪があります。罪のために死と滅びがいつも私たちを脅かしています。そのただ中にいる私たちのもとに、救い主はお生まれになりました。神さまの私たちへの愛の熱意がそれを実現してくださったのです。

この神さまの熱意が、一人の女性のもとに届けられました。天使ガブリエルが遣わされて、マリアを訪れて男の子を生むことを告げたのです。有名な「受胎告知」と呼ばれる出来事です。

この時マリアは、何が何だか分からなかったと思います。彼女にしてみれば、まだ結婚もしていないのに、どうして男の子を産むなどということが起きるのか、起きるはずがない、そう考えるのは当たり前のことです。しかし、天使ガブリエルはマリアに告げます。「神にできないことは何一つない。」これがマリアを納得させた言葉でした。

「神にできないことは何一つない。」このことを信じる。これが信仰です。これは、私たちの経験やそれに基づく見通しといったものを放棄し、神さまの愛の熱意に自分を委ねるということです。どうしてそんなことができるのかと思われるかもしれません。しかし、これを信仰と呼ぶのです。

私たちが自分の経験や見通しだけに立っている限り、神さまの救いを知ることは出来ないのです。それはどこまでも自分によることであり、その結果は死と滅びという限界がいつも私たちを脅かしている罪の支配の範囲で収まってしまいます。それはやがて私たちに疲れと諦めをもたらし、希望を失わせます。しかし、このアドベントの時、私たちが心に刻まなければならないことは、「神さまにできないことは何一つない」ということと、「神さまの愛の熱意が成し遂げられる」ということです。神さまの愛の熱意が始められることは、罪と死に打ち勝って実現されるのです。

この時マリアは天使の言葉に対して、「お言葉どおり、この身に成りますように。」と答えました。神さまの奇跡が他人事であるならば、私たちは「そういうこともあるかもしれない」と言って済ませることも出来るでしょう。しかし、神さまの救いは私たちの人生の上で起きるのです。神さまの愛の熱意である救い主イエス・キリストを、私たちの人生にお迎えしましょう。

2018年12月01日

11/18 説教要旨

マタイによる福音書8章14~17節

イエス様の病の癒しの奇跡が続けて記されます。マタイによる福音書は、山上の説教を語られたのと同じ一日の間に起こった出来事として記しています。これは、イエス様の地上での宣教のお働きの一日が、こういうものだったと教えていると言えるでしょう。つまり、神の国について教えられ、求められると病を癒してくださる。それもすぐにお応えくださいます。神の民として祝福された者が病になるのは、何か罪を犯しているからだ。本人でなければ先祖に罪があるからだ、という考えがありました。そのため病は、神さまの救いの枠から外れた状態、神から見捨てられた状態とされました。イエス様はそのような悩みを担い、人々に神さまの愛を伝え、連れ戻してくださることに熱心でした。それが病の癒しの御業にあらわれています。この癒しについて「彼は…患いを負い、病を担った」というイザヤ書の言葉の成就だと記しています。病の苦しみは消滅したのではなく、イエス様が負ってくださいました。それは「神から捨てられる」という悩みです。罪のゆえに私たちの命は死にさらされることになりました。その時から病の悩みが私たちを襲いました。罪のもたらす絶望を神の独り子が引き受けてくださったのです。救い主はご自分の一日をそのために休む暇もなくすべて費やしてくださる日々を送られたのです。その極みに十字架の贖いがありました。イエス様が神から捨てられるべき罪の重荷を負い、私たちに代わって悩み苦しんでくださったのです。

2018年11月25日

11/11 説教要旨

マタイによる福音書8章5~13節

イエス様のもとに、僕の癒しを求める百人隊長が近づいてきました。彼もまた、普通ならば近づくことのない人です。彼は外国人でした。当時の敬虔なユダヤ教徒は外国人との交流を避けることが多かったですし、ましてユダヤを支配していたローマ帝国の百人隊長に対してはなおさらでした。しかし、「イエス様こそ救いの神であられる」という信仰が彼をイエス様へと近づかせました。ここにマタイ福音書は第一の信仰の姿を見ています。この方こそ救い主と信じたならば、まっすぐに近づくのです。私たちは救いをいただくよりも、世の事情や気遣いに心を奪われて、救い主を見送ってしまうのです。しかしどんな事情も気遣いもイエス様は担ってくださり救いの道を開いいてくださいます。多くの人がそこまで信じぬいていないのです。第二に、彼は徹底的にイエス様を「神の子」、「救い主」として向かい合っています。自分の屋根の下にお迎えできないというのも、神さまの御心を本気で尊重しているからです。神さまがお命じになれば、万物はその御言葉に服さなければならないということを信じていました。だから、余計な儀式で慰められることを求めませんでした。自分勝手に救いの実現を決めることをしませんでした。御言葉を求めました。本当に御言葉によって救われるのは百人隊長自身であることを承知していたのです。この徹底して神を神とする信仰に、神の独り子である救い主、イエス様は喜んで応えてくださいました。

2018年11月12日

11/4 説教要旨

マタイによる福音書8章1~4節

山上でお話を終えてイエス様は山をおりられます。ここからイエス様の言行を記した箇所がはじまります。そこに重い皮膚病の人が近づいてきて、清められることを願いました。イエス様はその人を清めて病を癒してくださいました。この出来事は、山上の説教の最後の教えにあった「わたしのこれらの言葉を聞いて行う者」の具体的な姿です。重い皮膚病の人は、当時「汚れている」と言われていました。重い皮膚病は神さまの罰を受けていると信じられていたからです。ですから、病の苦しみ以上に、ユダヤ人でありながら神さまの救いの外に置かれるという苦しみを背負っていました。汚れを人に移さないために人々から離れていることを強制されていました。おそらくこの人は人々から離れてイエス様の言葉を聴いていたのでしょう。そして、この方ならば自分を清めて神さまの元へと帰らせてくださる救い主だと信じて近づいてきたのです。これが「わたしのこれらの言葉を聞いて行う者」の姿です。イエス様は、近づいてきた彼を「手を差し伸べてその人に触れ」て、迎え入れてくださいました。「手を差し伸べて」という言葉には「広げて」という意味もあります。つまりイエス様は片手を伸ばして触れたというよりも、両手を広げて迎え入れたと理解してよいと思います。「よろしい、清くなれ」という言葉も、癒しの宣言であるとともに、「そうだ、あなたは神の御腕の中にいる」という宣言です。救いの宣言です。山上の説教で語られた、「悲しむ人々は幸いである、その人たちは慰められる」「求めなさい。そうすれば与えられる」「岩の上に自分の家を建てた賢い人」の実現がここにあります。

2018年11月12日

10/28 オープンチャーチ説教要旨

マルコによる福音書2章17節

 キリスト教会において親しまれてきた「あしあと(フットプリント)」という詩があります。今日は、この詩と、この詩についての伝えられているエピソードを紹介します。

あしあと(Footprints) 原作者 マーガレット・F・パワーズ
ある夜、彼は夢を見た。それは主イエスとともに海岸を歩いている夢だった。空に彼の人生が次々と映し出された。彼は、人生のどの場面にも、二人分の足跡が残っていることに気づいた。ひとつは自分のもの、そしてもうひとつは主イエスのものであった。
そして人生最後の光景が映された時、彼は砂浜の足跡を見た。そこには一人の足跡しかなかった。それは、彼の人生で最もつらく悲しみに打ちひしがれていた時も同じであった。彼はそのことでひどく悩み、主イエスに尋ねた。
「主よ、かつて私があなたに従うと決心した時、あなたはどんな時も私とともに歩んでくださると約束されたではありませんか。けれども私の人生で最も苦しかった時には、一人の足跡しかありません。私が最もあなたを必要としていた時、どうしてあなたは私を置き去りにされたのですか?私にはわかりません。」
主イエスは答えられた。
「私の大切な子よ、私はあなたを愛している。決して見捨てたりはしない。あなたが試練や苦しみの只中にいた時、ただ一人の足跡しかない時には、私があなたを背負って歩いていたのだ。」

 この「あしあと」という詩は、人生に疲れ、重荷に押しつぶされそうになっている多くのクリスチャンたちを励まし続けてきた有名な詩です。この詩はカナダのクリスチャン、マーガレット・パワーズという女性が、夫のポールさんにプロポーズされた日に、この詩は生まれました。ポールさんはキリスト教の伝道者、マーガレットさんは学校の先生でした。

 二人は共にクリスチャンで、将来の不安など何もないかのように周りからは見えました。ところが、二人の心の奥底には、ある不安があったのです。それは、二人の育ってきた環境があまりにも違う、ということでした。

 マーガレットさんは、本当に幸せな家庭で育った人でした。一方、ポールさんは、父親の激しい虐待を受けて育ちました。彼は少年院を転々としていました。しかし出所後、老齢のクリスチャン夫婦宅でお世話になったことがきっかけになり、心から悔い改めてクリスチャンになる決心をしました。イエス・キリストが自分の罪のために十字架にかかって死んでくださった。そのことを知った時に、彼は母親が死んだ7歳の朝以来、初めて涙を流したと言います。

 そういう二人が、プロポーズのあと、湖のほとりを歩きながら、将来のことを真剣に語り合っていたのです。そろそろ戻ろうと思い、砂浜を折り返そうとした時に、彼らは二人の足跡が波に掻き消され、一人分しか残っていないことに気づきました。それを見てマーガレットさんは、「これは神様が二人を祝福してくれない暗示ではないか」と不安に思った、と言うのです。けれども、ポールさんは言いました。「いや、そうじゃない。二人は一つになって人生を歩んでいけるんだ」と。けれども、マーガレットさんはまだ不安でした。そして「二人で処理できないような困難がやってきたら、どうなるの」と聞きました。その時にポールさんは、すかさずこう答えたそうです。「その時こそ、主が私たち二人を背負い、抱いて下さる時だ。主に対する信仰と信頼を持ち続ける限りはね」。詩を書くのが好きだったマーガレットさんはこの出来事を詩に書きとめました。

 この話には続きがあります。25年後に彼らは大きな試練に出会いました。今度は、娘さんを含めた家族三人が大きな事故に巻き込まれて重傷を負ってしまったのです。ある時にポールさんの病室を訪ねてくれた看護師が祈ってくれました。その看護師は「作者は分からないけれど、とてもいい詩なので、この詩を読んで元気を出して!」と言って、ある詩を贈ってくれたそうです。その詩こそ、なんと25年前にマーガレットさんが作った「あしあと」という詩でした。ポールさんは、その詩を聞き、驚きと共に慰めを与えられたそうです。そして、このことをポールさんから伝えられたマーガレットさんも、25年前の信仰の原点に立ち返り、本当に慰められたと言います。

 苦しみの時だけではありません。罪という重荷はいつでも私たちの人生の歩みを捉え、動けなくします。その時に、私たちを背負って支えてくださる救い主イエス・キリストがおられます。イエス様はそのためにこそ自分は来たのだとおっしゃってくださったのです。

2018年11月03日

10/21 説教要旨

マタイによる福音書7章24~29節
山上の説教の結びです。「これらの言葉」とは、これまでイエス様がお話しされた山上の説教の御言葉全てを指しています。イエス様が教えてくださったことは、天の国に入るためにもっとも大事なことは父なる神さまの愛を信じるということでした。そこから信仰者の生活も整えられていくのです。つまり、ここで言う土台としての「岩」とは、神さまの愛のことです。神さまの愛に支えられて人生の「家」を作る者は、天の国に通じる道を知っている賢い者だと教えられるのです。一方の「砂」とはそれ以外の全てです。神さまの愛以外に命を支えられることは、結局天の国に入る希望まで奪われてしまします。それは「愚か」です。当然みんな「岩」を選ぶはずです。しかし、実際はどうだったでしょうか。これらの言葉をお話しして、「それでは分かったね」とイエス様は天にお帰りになりませんでした。これらの言葉は「福音」の序章に過ぎないのです。そこでイエス様はすでに天の国に入る秘密を隠さず教えてくださいました。しかし罪によって目をふさがれたような私たちはついに自分で「岩」を選べなかったのです。皆が「砂」を選んで唯一の救いの「岩」を拒絶したのです。イエス様を十字架にかけてしまったのです。しかしこの十字架の上で死んでくださったイエス様が救いを成し遂げてくださいました。イエス様が「砂」に命をゆだねた罪の報いを引き受けてくださり、私たちのために救いの「岩」をもっとも深いところに据えてくださったのです。

2018年10月24日

10月の手紙

主イエス・キリストにあってご挨拶いたします。皆様に恵みと平和がありますように。実りの秋の恵みが豊かにありますように。西日本豪雨、台風、北海道の地震による被災者のために神さまの慰めと励ましを重ねてお祈りします。
年齢に関係なく、腰骨が立ち背筋が伸びた状態で座ったり歩いたりすると、実年齢より10歳は若く見え、逆に背中が丸まって猫背になると実年齢より10歳は老けて見えるそうです。さらに言うと、姿勢が良いとそれだけで立ち居振る舞いに何となく品性が感じられるし、その逆もまたしかり、なのです。ただ自分の姿勢を客観的に見る機会のない私たちは、自分が良い姿勢をしているのか分からないし、そんなことをあまり意識していません。
子どもの頃、先生によく「正しい姿勢で!」と言われました。立っていても座っていても、正しい姿勢をずっと維持するのは疲れる気がしていたものです。しかし専門家の話によると、楽な姿勢、たとえば椅子に座って足を組むと楽に感じるのは、そもそも体が歪んでいるからだそうです。正しい姿勢が身に付いていると、姿勢を正しているほうがずっと体は楽なのだと言います。正しい姿勢は意識しないと身に付きません。そのためには日頃から「見られている」という意識を持つといい、と聞いたことがあります。
心の姿勢も同じことが言えるのではないでしょうか。心の姿勢とは、物事に取り組む時や新しいことに挑む時の心構えのことです。そして体の姿勢がそうであるように、心の姿勢も一瞬のことではなく、日常の中にそれはあります。心の姿勢が歪んで心まで猫背になっている人が増えていないでしょうか。どう生きたらいいのか。どこに向かって成長していくべきなのか。人の想いをしっかり受け継ぎ、それをちゃんと繋いでいるでしょうか。こんな思考を「面倒臭い」と思って避けていると、気が付かないうちに心が猫背になります。思考がひねくれてしまったり、うつむきがちになり何となく前を向いていけなくなるのです。
「隠れたことを見ておられるあなたの父(神さま)が報いてくださる」
(聖書 マタイによる福音書6章6節)
「見られている」という意識が美しい姿勢をつくるのは、体も心も同じなのでしょう。
2018年10月20日
西荻教会 牧師 有馬尊義

2018年10月24日

10/14 説教要旨

マタイによる福音書7章21~23節
 イエス様はここで、ご自分を救い主、神の子としてあらわしておられます。それは、イエス様に向かって「『主よ、主よ』と言う者が皆、天の国に入るわけではない。わたしの天の父の御心を行う者だけが入るのである」、と言われたことからわかります。天の国に入る者を、イエス様こそが決められると言われたのです。この「イエス様によって天の国に入れるかが決まる」というところが重要なのです。この箇所を「主よ、主よ」と呼ぶだけではダメで、信仰の行いがなければならないと読んだら間違いです。なぜなら、イエス様から「不法を働く者ども」と呼ばれた人々は、イエス様の名で奇跡をいろいろと起こした人々なのです。行いに不足があるとは思えません。しかし、イエス様の名でこんなに大きな業を成し遂げたのだから天の国に入れるのは当然、と考えたところに決定的な間違いがあるのです。天の国に入るということは、一切を救い主であるイエス様にお任せするということです。イエス様を「主」と呼ぶのは、それによって奇跡を起こして功績を稼ぐためではないのです。罪深く、本来なら天の国にふさわしくない者のために、ただ愛をもって十字架にかかり、私たちを救ってくださったイエス様の愛に、一切をお任せすることなのです。このイエス様を「救い主」、「わが神」、「主」と正しく呼び、信じる信仰も神さまからいただくものです。徹底的に神さまの愛によってのみ天の国は私たちに与えられるのです。

2018年10月24日

10/7 説教要旨

マタイによる福音書7章15~20節

 山上の説教の結びに当たってイエス様は天の国に入るための注意を語られます。ここでは偽預言者に警戒するように言われます。この前の箇所の狭い門の話に関連させると、天の国に通じる狭い門である主イエスご自身へと私たちを導いてくれる人を見分けなさいと言われるのです。偽預言者は巧みに私たちを誘って、滅びに至る門へと導きます。ですから私たちには本物と偽物を見分けるのが難しいのです。そしてもう一つ私たちが警戒すべきは自分自身で道を開けると思う「自己流」の誘惑です。信仰の事柄には、何故か自己流で突き進む人が必ずいます。しかし、天の国に通じる門は「唯一」イエス様しかおられない狭い門なのです。私たちが自己流で開拓するのではなく、イエス様が切り開いてくださった十字架の道を歩むのです。だから自己流もとても危険なのです。そこでイエス様は「その実」で見分けるように言われます。その導き手に従っている者の姿を見て、本物か偽物かを見分けなさいと言われます。この点でイエス様は極めてリアリストです。ダメなものはダメなのです。神さまの救いは、あなたがたの気持ちが満足すればいい、というようなものではありません。本当に天の国に入ることが出来なければ、私たちには「滅び」しかないのです。そこで見分ける目を養い、私たち自分自身が、天の国に通じる道をイエス様と歩んでいるかを意識することが大切です。そこに狭い門を示す、世の人のための証しも顕れてくるからです。

2018年10月11日

9/30 オープンチャーチ礼拝説教

ルカによる福音書11章9~10節

皆さんはお祈りをされたことはあるでしょうか。キリスト教徒(クリスチャン)はお祈りをします。頻繁に祈るのがキリスト教徒(クリスチャン)です。そして、キリスト教徒(クリスチャン)のお祈りの特徴は、神さまへの感謝とお願いです。

以前、曹洞宗のお坊さんとお話しをした時に、仏教では祈願は下品なものと考えられていると教えてくれました。祈念と祈願というのは別のもので、祈願というのは自分の求めているものを与えてほしいということだから、今のあるがままを受け止め、欲を断つ悟りの姿とは真逆のものだと考えられているそうです。

実は、聖書の中に登場するユダヤ教徒の間でも、祈願は不信仰の姿だと考えられてきました。神さまは私たちと世界の全てを全知全能のお力と御心をもって支配しておられる。だから何でも感謝していただかなければいけない。嫌でも、苦しくても感謝しなさい。お願いをするのは神さまの約束や力を疑うことになるから、神さまに対して失礼で、罪につながる。そんな風に当時の聖書の先生から教えられていたのです。

イエス様も「あなたがたの父(神さま)は、願う前から、あなたがたに必要なものをご存じなのだ」(マタイによる福音書6章8節)と言われています。神さまは私たちの天の父として、子である私たちのことを愛して何でもご存じでおられる。そう教えられました。ところがイエス様はそれだけでなく、しかし「願いなさい。そうすれば与えられ、あなたがたは喜びで満たされる」(ヨハネによる福音書16章24節)と教えておられます。これはどういうことでしょうか。

神さまは何でもご存じだから、願う前から必要なものを与えてくださる。だから、願う必要はない。これは正しい理屈です。しかしお祈りというのは、それだけではない。それが「神さま」を「父」と呼ぶことに示されています。理屈だけでなく、愛によって結ばれているのが私たちと父である神さまなのだよ、と教えてくださいました。だから「求めなさい。探しなさい。門をたたきなさい」、願い続けてよいのだよ。「願い続けなさい」、と教えておられるのです。

「ある時、私の幼い息子がやってきて、書斎の入り口に首を突っ込んできました。『パパ、一緒にいさせてくれたら、ずっと静かに座ってるよ』と言うのです。息子はそうやって父の心に訴え、承認を得ました。これは天の父に対して私たちがよく抱く気持ちではないのでしょうか。私たちがいつ御前に行っても、何度行っても、神の邪魔には決してならないのです。」(オーレ・ハレスビー)

子どもが近づいてきてお願いをしたとき、例えば上記のように「一緒にいたい」と願う時に、「お前には部屋を用意してある。お前には食事もおやつもおもちゃも絵本も既に与えてやった。それ以上を望むとは、なんて失礼な子だ。私と一緒にいたいと願うとは、なんて無礼な子だ」という親はおかしいでしょう。逆に自分の親はそういうとんでもないおかしな人に決まっている、と子どもに決めつけられたら親はどう思うでしょうか。

親が子どもために前もって必要なものを与えてくれているから、子どもは生きられるというのは理屈でしょう。しかし、それだけで子どもは喜んで生きていけるでしょうか。前もって必要なものを与えたからもう子どもと会う必要はない、と思う親はいないでしょう。必要なものは既に与えてあるから、別に喜ぼうが悲しもうが関係ない、あきらめろと言う親もいないでしょう。

まして、もっとも深く私たちを愛してくださる天の父である神さまは、どれほど大きく天の扉を開いて私たちを待っておられることでしょうか。お祈りは、「父」である神さまと一緒に過ごす時なのです。

2018年09月30日

9/23 説教要旨

≪召天者記念礼拝≫

ヨハネによる福音書12章44~50節

主イエスは叫んで言われました。「わたしは世を裁くためではなく、世を救うために来た。」そして父なる神さまの御心が「永遠の命である」ことを示してくださいました。この主イエスの叫びを召天者を記念するこの時の、慰めのみ言葉として聞きましょう。教会で召天者記念をするときには必ず礼拝をします。召された方々と共にしてきた礼拝を繰り返します。主イエスのみ言葉を信じて神さまを礼拝してきた方々が、復活の時を迎え、眠りの中から起こされたときに、すぐに一緒に礼拝をするためです。召された者は誰一人として救いの道を遮られることはありません。冥福を祈る必要はないのです。なぜなら、全知全能の、創造主である神さまが「滅びへと裁かない。永遠の命の内に迎える」ということを決意してくださっているからです。だから、先に召された方々と出会うのは死の闇の中ではなく、神のみ前で永遠の命の光の中で出会います。だから、召された方を想う時も主イエスの命の約束の中で想い起します。その時、召された方々と今も地上の生涯を歩むことを許されている私たちとは一つの神の民となります。そこに例外はありません。何故なら、真の裁き主である方が「裁かない」と言われるのです。滅びに定めることはない、と叫んでくださるのです。主イエスはやがて、この実現のために私たちの罪を贖って十字架の上で死んでくださいました。十字架の上でも叫ばれました。私たちを一人も滅びへと裁くことなく、救いの道を拓いてくださったのです。

2018年09月30日

8/5 説教要旨

マタイによる福音書6章22~23節
「あなたがたの中にある光」、これは神さまからいただく光です。澄んでいる目とは、「まっすぐに見る」ということです。脇目をふらずに本当に必要なもの、欲しいものに目を向けている、そんな眼差しを「澄んでいる目」と言われています。何を見つめているのでしょうか。それは、神さまの報いです。これまでイエス様は、施し、祈り、断食という信仰の行いの大事な要点は、「誰からの報いを求めているのか」であることを教えられました。信仰の行いは神さまにご覧いただくだけでよい行いです。神さまに向かって願い求めていながら、手は人の方に差し出して称賛を受け取ろうというのはおかしな話です。本当に求めている大きな恵み、幸いや赦しは神さまからいただくものです。神さまこそが私たちの全身を明るくするまことの光を与えてくださる天の父です。そのことを信じて、まっすぐに神さまを見つめる眼差しが「澄んでいる目」です。この目で神さまの愛と恵みを見つめるとき、恵みの光が私たちのうちに「信仰」の火を灯します。この光をいただいて私たちは全身を明るくするのです。恵みの光の源である神さまから目を反らして見るのは、罪に支配された暗さです。そこに私たちを明るくする光はありません。そこで与えられる世の報いは私たちの内の光を消し去ろうとします。神さまに救いの希望があります。私たちは神さまから光をいただいて全身を明るくし、私たち自身が恵みの光を携え世を照らすのです。

2018年09月22日

8月の手紙

主イエス・キリストにあってご挨拶いたします。皆様に恵みと平和がありますように。西日本を中心とした豪雨による被災者のために神さまの慰めと励ましをお祈りします。
皆さんは、「子ども兵」の存在をご存じでしょうか?ウガンダで元子ども兵の社会復帰を支援している「テラ・ルネッサンス」の代表である鬼丸昌也さんのお話を紹介します。
2004年当時ウガンダは、政府軍と武装勢力による内戦が続いていました。武装勢力は、多くの子どもたちを誘拐し、男の子は兵士として、女の子は食事などの兵士の身の回りの世話や「褒美」としてあてがわれたりしました。その数は23年間でのべ2万人にもなります。その中の16歳の男の子はこう証言しました。「僕は、お母さんの腕を切らなければいけなかったんだ。」彼は12歳の時に誘拐され、訓練を受け、その後「テスト」と称して自分の生まれ育った村を襲いに行かされます。そこで受けたのが「母親の腕を切れ」という命令でした。なぜ、そんなことをさせるのか?一つは、脱走を防ぐためです。自分の住んでいた村や家を襲うことによって、「もう自分は帰れない」と思わせるのです。もう一つは、人を傷つけることに対する恐怖心を奪うためです。最初に近親者や友人に危害を加えることによって感覚を麻痺させるのです。
ウガンダでは現在に至るまで、194人の元子ども兵を社会復帰させることができています。ただお金や物をあげるのではなく、「どうすれば彼らの能力を生かし、自立に向けて一歩踏み出せるようになるか」を共に考え、必要な支援をしていくことが大切です。仕事や商売は人との関係性の中で生まれます。だからコミュニケーションは不可欠です。そうしたコミュニケーションの積み重ねの中で元子ども兵の自尊心に変化が現れてきます。自分が少しずつ村や町の人に受け入れられていると感じていくことは、自分の過去を受け入れる強さにもつながっていくのです。「私たちが相手を変える」のではなく、「相手の中にある眠っている力に光を当てることで、本人が持っている本来の力を目覚めさせていく」という支援です。
東日本大震災のあの日、「テラ・ルネッサンス」にウガンダから1本の電話がかかってきました。「大津波の映像を見ました。そして私たちは話し合いました。『今、私たちに何ができるのだろうか』と。そして決めました。わずかでもいいから日本の人たちのために募金をします」と。彼らの調達した毛布が寒さから被災者の命を守ってくれました。「自分のためだけでなく、誰かのために貢献したい」という心は失われなかったのです。

2018年09月22日

8/12 説教要旨

マタイによる福音書6章24節
わずか1節のみ言葉ですが、時代ごとに多彩な解釈をされてきた箇所です。ここで言われている「富」はそのまま「お金」のことです。神さまとお金に同時に仕えることはできない、と教えられていることは明らかです。お金というのは更に、神さまでない被造物ということですから、神さまと偶像に同時に仕える(信じる)ことはできないということでもあります。しかし、私たちは同時に仕えるような生き方をしているなあ、と自分の生き方を振り返って思うのではないでしょうか。実はその主人を選べると思っている感覚こそが「大間違い」なのです。「仕える」とは当時の理解では奴隷として仕えるということです。奴隷は主人を選べません。報いは自分の所有者である主人からのみいただきます。私たちは神か富かどちらかに所有されているということです。どちらかを選ぶ力など私たちにはないのです。そして、ここで主イエスが伝えたいのは、私たちは「富」という言葉で代表される被造物を主人として仕えているのではなく、神さまに所有されているのだということです。神さまは御心をもって私たちを「救う」と決断してくださり、ご自身の独り子イエス・キリストを十字架で代価として支払って私たちを罪と悪と滅びからご自身の所有としてくださいました。しかも神さまは、私たちを奴隷ではなく自由な「子」として迎えてくださいました。父なる神に親しんで仕え、父なる神から豊かな報いをいただいて生きるのが信仰者なのです。

2018年09月22日

8/19 説教要旨

マタイによる福音書6章25~34節
大変よく知られたイエス様のみ言葉です。6章のまとめとして、神さまを父として信じて生きる私たちに、神の国と神の義を求める生き方を勧めておられます。このイエス様のみ言葉を行っていくところに神の国の恵みが与えられていきます。「行っていく」というのは、当に文字通り「行う」ということです。ここでイエス様は「空の鳥をよく見なさい」、「野の花がどのようにして育つのか、注意して見なさい」、と言われています。神の国の恵みを真にご存知であり、神の義を教え、実現される救い主であるイエス様が「しなさい」と言われていることを、まずやってみることです。イエス様が「空の鳥をよく見なさい」と言われたみ言葉を思い出したら、見上げて鳥を探すのです。「野の花を注意して見なさい」と言われたから、足を止めて野の花を見つめるのです。イエス様が教えてくださったようにしてみることから神の国に生きる現実は始まるのです。神の国と神の義を求めるとはそういうことです。父なる神を信じ、イエス様を信じて、やってみなさいと勧められることを「やってみる」ことです。一体それが何の意味があるのか、どういう理屈で思い悩むことから私たちを解放してくれるのか、と考えはします。でも実行しないのです。たかだか数十年の人生経験から分かったつもりで永遠の神の愛を見損なって歩いているのです。まず、やってみてください。それが信じて生きるということです。そうしたら、「みな加えて与えられる」、とイエス様は断言しておられるのです。

2018年09月22日

8/26 オープンチャーチ礼拝説教

マタイによる福音書25章21節
聖書は、私たちの人生は主人である神さまからお預かりしているものだと教えています。イエス様はそのことを教えるために、神さまを主人に、私たちを使用人にたとえて、お話をされました。私たちには大変な豊かな人生の元手が預けられています。しかし、私たちは自分にそれほど豊かなものが預けられていることに納得しません。「ある」ことより「ない」ことに心が奪われるからです。自分にはなくて、他の人が持っているものを気にします。けれどもそれは本来すべて主人である神さまのものですから、誇ったり妬んだりするものではありません。最も大事なことは、預けてくださった主人の信頼に応えることです。主人である神さまの喜ばれるように預かったものを用いることです。使用人は主人に再び会う日に備えて預けられたものを用いました。必ず主人と会う日が来ます。タイムリミットがあるのです。その日、主人にとって成果の大小に関係なく、「よくやった」と手放しに誉めてくださいます。主人のことを思い、主人の言葉を大切にして預けたものを使ったからです。主人である神さまは必ず良く用いてくれると信じて人生を預けてくださっています。「石工の答え」という話があります。ある人が石工に「何をしているのか」と尋ねると、一人目は「壁を組み立てている。来る日も来る日もね」、と答えます。もう一人は「美しい大聖堂を建てている。人々が神を礼拝できるように」、と答えます。同じことをしていても、自分の成果をはかることに汲々とする人にとって人生は苦痛です。しかし、神と人とに向かって生きる人にとっては神さまと一緒に喜びの日を迎えるための、喜びの元手です。

2018年09月22日

9/2 説教要旨

マタイによる福音書7章1~6節
「人を裁くな。」これはイエス様の命令です。キリスト者は神さまに代わって人を裁いてはいけないのです。私たちは人の評価を気にして神さまの報いを失ってしまうことがあります。一方で私たち自身が人を評価し裁くこともあるのです。「裁く」というのは大変強い言葉です。白黒をつけるということですが、ここでは人を罪に定めるということでしょう。そこで、イエス様は言われます。「兄弟の目にあるおが屑は見える」、つまり他人の罪にあなたがたは敏感で、神さまに代わってそれを裁こうとする。けれども、「自分の目の中の丸太に気づかない。」自分の目の中に丸太があっては物を見ることなどできません。何が見えていないのでしょうか。それはまことの裁きをなさる神さまの御心です。神さまの御心が見えていないのに人を罪に定めるようなことは決してしてはいけない、とイエス様は教えられるのです。だからまずすべきことは自分の目の丸太を取り除くことです。どうしたら取り除くことができるでしょう。それは私たち自身にはできないことです。そのために来てくださった方が救い主であるイエス様です。おが屑や丸太は「罪」を譬えています。この罪を取り除くためにイエス様は十字架にかかってくださいました。そしてイエス様の十字架よって神さまの御心を私たちは見ること(知ること)ができるようになったのです。神さまの御心は「ひとりも滅びない」こと、「罪人を赦すこと」であったのです。この神さまの御心によって罪赦され、救いをいただいたのです。どうして人を「お前は救いに値しない罪人だ」と裁くことができるでしょうか。

2018年09月22日

9/9 説教要旨

マタイによる福音書7章7~12節
「求めなさい。そうすれば、与えられる」というイエス様の言葉は、大変によく知られている言葉です。多くは人生を成功に導くマインドのように読まれます。またルカ福音書の文脈から、諦めずに祈ることを教えていると理解されます。しかしマタイ福音書では「人を裁くな」という教えと、「人にしてもらいたいと思うことは、あなたがたも人にしなさい。これこそ律法と預言者である」という言葉に挟まれた文脈、そして山上の説教全体の文脈に注目すべきです。山上の説教において語られてきたテーマは「神の国で生きる」ということでした。これは人生訓や祈りだけの教えでありません。「求める」とは何を求めるのか?丸太のように神さまの御心を見えなくしている罪を取り除いていただくことです。「探す」とは神の国に入る道、救いの道を探すということです。「門をたたく」とは、神の国の門をたたいて神の国に入れていただくということです。その時に、互いに「裁く」ことで身を守ってきた関係から、「してもらいたいことを、人にする」という仕え合う隣人関係という、神の国に生きることが始まるのです。この言葉を語ってくださっているのは救い主であるイエス様です。罪を取り除けるために、十字架にかかって罪を身代わりに担って死んでくださった救い主です。この方が十字架にかかってくださったことで、私たちの求めた罪の赦しが与えられ、探した神の国につながる道が作られ、見いだされました。この方の十字架の救いにあずかって神の国の門をたたくとき、門は開かれます。そこでは罪人を裁く「石」も、再び罪に誘う「蛇」もありません。天の父が迎えてくださるのです。

2018年09月22日

9月の手紙

主イエス・キリストにあってご挨拶いたします。皆様に恵みと平和がありますように。西日本豪雨、台風、北海道の地震による被災者のために神さまの慰めと励ましをお祈りします。
人は小さい頃からいろんな失敗をします。同じ失敗でも人によって受け取り方が違います。「もうだめだ」と落ち込む人がいる半面、失敗を「次へのステップ」と理解して頑張る人もいます。同じ体験に対してなぜこんなに違った反応をするのか。それはその人が過去にどういう「枠組み」の中で失敗したかで違ってきます。つまり過去に失敗した時の周りの反応はどうだったか、です。例えば悪い点数のテスト用紙を持って帰って母親に見せた。そのとき深い失望のため息をつく母親がいます。あるいは「なんでこんな悪い点数なの!」と責める母親がいます。しかし、「よく見せてくれたわね。次、頑張ろうね」と励ます母親もいます。こう言われると、悪い点数を取ったことを「失敗」と思わず、「次、頑張ろう」という意欲が湧いてきます。同じ事実でも周りの人の反応で、その体験の意味が全く違ってきます。すべての体験は人間関係の中で起きています。その失敗にどういう意味があるのかは、その人の人間関係が決めています。その時、周りにどういう人がいたかが重要になります。
こういう趣旨のお話を聞いたことがあります。失敗を恐れる人と全然恐れない人がいます。失敗を恐れる人は、「体は今ここにあるのに心が過去にある人」です。「失敗は怖いもの」と思い知らされた体験が過去にあります。「心は過去にある」、このことに気付かないと苦しい思いを続けます。
どんな宗教であれ、信仰を持つことは失敗を赦されない戒律の中で生きることだと思い込んでいる人もいます。実際、宗教者ほど失敗を恐れる存在はないように思います。人を失望させたり、傷つけたりすることが恐ろしいからです。しかし、キリストの救いを信じるというのは、失敗という過去から解放されることです。キリストを信じても失敗はなくなりません。しかし「お終い」ではない。失敗を次への「ステップ」にしてしまうところに信仰があります。心が強いのではありません。失敗にうずくまる私を、失敗という過去からキリストが連れ出してくださり、またキリストと一緒に愛の成功に向かって出発する。それがキリスト者の信仰生活です。

2018年09月22日

9/16 説教要旨

マタイによる福音書7章13~14節
マタイによる福音書の山上の説教の結びに入ります。山上の説教にはそれぞれの箇所ごとの小テーマがありますが、全体の大テーマは「天国に入るには?」ということです。そこでイエス様が言われたのが「狭い門から入りなさい」です。「狭き門」というと受験のことを思い浮かべますが、この狭き門は閉じてはいませんし、試験に合格する必要もありません。喜んで迎えてくれる天国に通じている門です。この門は、救い主であるイエス様ご自身のことを指しています。ただこの門だけが唯一天国に通じているという意味で「狭い」のです。十字架にかけられた救い主によって救われるという唯一の天国に入る真理に、多くの人が我慢できないのです。立派な、厳格な、善良な人間でなければ天国にふさわしくないと多くの人が思うからです。だから信仰者ほど失敗を恐れる者はいないと思います。神さまの求める正しさを満たせないと天国に入れないと思ってしまうのです。そこで他人の評価によって自分の正しさを確かめようとします。より厳しい修行で自分を天国にふさわしくしようとします。その方が実は歩きやすく、安心な道に思えるのです。しかし、その道は救い主が開かれた門ではありません。救い主が開いてくださった門は、罪ある者を迎えてくれる門です。主イエスご自身が罪人を担い、迎え入れてくれる門です。ただ神さまの愛によってのみ成立する門です。多くの者がこの神さまの愛に任せきれないのです。だから自分を納得させる評価を与えてくれる大きな道を選んでしまいます。しかし神の愛に背を向けて選んだ大きな道は滅びに通じているのです。

2016年10月01日