1/27 オープンチャーチ礼拝説教から

マルコによる福音書4章38節

クリスチャン(キリスト者)の生き方や信仰は、時にそうでない人には不思議に見えるようです。例えば、クリスチャンはこう信じています。普通ならば、「神さまがいるなら、苦しみはないはずだ」という代わりに、「痛み苦しみのあるところに、救い主はおられる」と言います。
東日本大震災の時に起こった福島第一原発の事故。この原発から5㎞の距離に福島第一バプテスト教会という教会がありました。事故の後、教会の近隣の方々と共に流浪して奥多摩まで教会は避難しました。この避難する人々をリードして来られた佐藤彰牧師が、自分たちが流浪の教会にならざるを得なくなったことをとおして、初めて、「神さまが共におられる」という聖書の約束が心の底に落ちてきたと言っておられます。残念ながら、私たちはごく平凡な生活の中では、神さまが私たちと共におられるということの意味を心の底から味わうということができない、鈍い心があります。福島第一原発で作業しておられる方のご家族が幾組も、佐藤先生の一行とともに避難しておられました。夫たちは家族のことを思い、仕事を捨てて一緒に逃げることも考えたそうです。しかし教会の輪の中にいる家族を見て、困難の中で逃げる家族と神さまが共にいてくださることを信じて、過酷な現場に向かったそうです。そして教会は、何人ものそのような方々を、神さまの「わたしはあなたと共にいる」という聖書の約束の言葉を朗読し、涙を流して、被爆の大きな危険をはらむ作業場に送り出しました。原発に関しては様々な意見がありますが、現在の放射能漏れを防ぐために、身の危険を侵してでも現場で作業する人が必要なことは明らかです。私たちの人生に必要な知恵は、人生を襲う嵐を避けることよりも、嵐の中でも、なすべき責任を果たし、命の道を歩むために本当に大切なものを知っていることではないでしょうか。
イエス様と弟子たちが乗った舟が嵐に遭い、今にも沈みそうになった時、イエス様は枕をして眠っておられました。舟が波をかぶって、水浸しになっているのに眠り続けることができるというのは不思議です。そこには深い安心感が見られます。ところが、そのとき、生まれながらガリラヤ湖に親しんできている漁師のペテロをはじめとする弟子たちが、あわてふためいて、「イエスを起こして、『先生わたしたちがおぼれてもかまわないのですか」と訴えます。普通ならば、漁師である弟子たちの方がイエス様を気づかってしかるべきなのに、逆だったのです。興味深いのは、イエス様がともにおられながら、プロの漁師の目にも、舟が沈没寸前になってしまったということです。プロの目で判断して、もうダメだ、という状況があります。そういうことは起こるのです。イエス様が一緒に乗っておられても、そうしたことが起こっているのです。こういう話を聞くと、それでは、「神を信じて、何になるのだ」と思う人もいるかも知れません。確かに、自然災害や事故や病は善人も悪人も問わずに襲ってきます。教会やクリスチャンだけは遭わないという約束は聖書の中にはありません。しかし、その代わりに神さまが何度も何度も、時代を超えて幾度も与えてくださる約束がその苦しみや困難の中で「わたしはあなたと共にいる」という約束でした。
沢山の迫害を受け、幾度も絶望を経験してきたユダヤの人々の伝えてきた言葉にこういうものがあります。「死ぬこと(諦めること)は明日でもできる。だから、今日しかできないことを今日しよう」と言う言葉です。これが神さまの約束を信じている者の生きる知恵だと教えています。救い主であるイエス様ご自身が、十字架にかけられて殺されるという苦しみの極みを負ってくださいました。しかし、神さまは三日目に死人の中からイエス様を復活させられました。最も深い苦しみの底でも、神さまの約束はあることを示してくださいました。だから、「神のおられるところ、苦しみはない」という代わりに、「痛み苦しみのあるところに、救い主はおられる」と言うようになりました。

2019年02月02日