2/17の聖日礼拝説教から

マタイによる福音書9章27~31節
信仰は、私たちの求めと、救い主であるイエス様と出会うことで成立します。私たちが熱心だけの問題ではありません。二人の盲人がイエス様に「ダビデの子よ、わたしたちを憐れんでください」と叫びました。イエス様はすぐにお応えになりませんでした。「ダビデの子」という呼びかけは、救い主を指す言葉の中でイエス様が避けられた呼び方です。それは、「ダビデの子(偉大なダビデ王の子孫)」という言葉が、ダビデ王家による正当な支配の再来を期待する意味が強かったからです。ダビデ王のように神の民を脅かす世の権力者を倒して、ユダヤ人が力をもって支配するという意味を含んでいました。私たちは人を様々な権威を元に判断します。その人自身を知るより先に、その人がどんな肩書を持っているかで判断します。イエス様は「ダビデ」によって権威を与えられることを避けられました。確かに救い主は預言によってダビデの家系に生まれました。しかしそれは罪の歴史を担ってくださるためです。イエス様に権威を与えるのは父なる神のみです。そして父なる神の御心は、敵を滅ぼすことではなく、敵を愛することでした。そのためにイエス様は十字架にかかってくださったのです。この神さまの愛がどんな肩書にもよらず、まことに「イエス」という方にむき出しになっているのです。このイエス様と出会い、「主よ」とお応えするところに信仰があり、救いがあります。二人の盲人も肩書を離れてイエス様に出会って、「はい、主よ」と応えて癒しをいただきました。

2019年02月26日