3/10の礼拝説教から

マタイによる福音書9章35節~10章4節
イエス様は「群衆が飼い主のいない羊のように弱り果て、打ちひしがれているのを見て、深く憐れ」ました。「深く憐れむ」という言葉は、聖書では神さまの「憐れみ」の心をあらわす時にだけ使い特別な言葉です。「はらわたが痛む」という意味で翻訳されたこともありました。単に「かわいそうに思う」のではなく、深く愛するあまり自分のはらわたを捻じられるような痛みを感じる程だったということです。「深く憐れまれた」というのは、「愛された」ということを言い換えているものです。ヨハネ福音書3章16節に「神は、その独り子をお与えになったほどに、世を愛された。独り子を信じる者が一人も滅びないで、永遠の命を得るためである」とあります。打ちひしがれた者を一人も滅びに渡さないために、深い憐みのゆえに神様は最も大切なイエス様を与えてくださったのです。群衆はいつも俯いて生きていたわけではないでしょう。仕事をし、家族を守ろうと生きていたはずです。しかしどんなに元気に見えても、「飼い主」である神さまを見失ったままでは滅びてしまいます。イエス様は彼らのための働き手を求めるように神さまに願うことを弟子たちに命じられました。収穫のための働き手というと、まず牧師が考えられるでしょう。あるいは教会の奉仕者もそうでしょう。イエス様の深い憐みをいただき、十字架の救いを与えられた私たちは、イエス様と共に弟子として働き手が与えられることを祈り願うのです。

2019年03月25日