3/31 オープンチャーチ礼拝説教から

ヘブライ人への手紙12章4節

十字架はキリスト教会のシンボルです。教会の十字架は、救い主であるイエス様が十字架に磔(はりつけ)にされて死なれたという事実を伝えています。十字架は犯罪人に対するもっとも残酷な処刑方法でした。しかしイエス様は、犯罪はもちろん、何一つ罪を犯されませんでした。神様を愛すること、私たち自身を愛すること、それと同じように隣人を愛することを教えられました。そしてイエス様ご自身が私たちを深く愛してくださいました。なぜ、そのような方が犯罪人として、しかももっとも残酷な仕方で処刑されなければならなかったのでしょうか。
 聖書は、イエス様は罪と戦って血を流すまで(死にいたるまで)抵抗されたからだ、と教えています。聖書の教える「罪」というのは、神さまから私たちを引き離して、私たちを悪い道へと誘い、滅びへといたらせるものです。ですから罪と戦うと聞くと、「罪を犯さないように抵抗する」と考えるのが普通ではないでしょうか。罪を犯さずに、正しく生きることが「罪と戦う」ことだと考えます。私たちにとってはそうでしょう。しかしイエス様は罪を犯されたことのない神の独り子でした。イエス様にとって、罪との戦いは私たちとは違いました。私たちの誰も代わることのできない戦いを、十字架の上で血を流して死にいたるまで戦い抜いてくださったのです。どんな戦いだったのでしょうか。
 イエス様の十字架について聖書のイザヤ書53章は次のように記しています。「彼は軽蔑され、人々に見捨てられ 多くの痛みを負い、病を知っている。彼はわたしたちに顔を隠し わたしたちは彼を軽蔑し、無視していた。彼が担ったのはわたしたちの病 彼が負ったのはわたしたちの痛みであったのに わたしたちは思っていた 神の手にかかり、打たれたから 彼は苦しんでいるのだ、と。彼が刺し貫かれたのは わたしたちの背きのためであり 彼が打ち砕かれたのは わたしたちの咎のためであった。彼の受けた懲らしめによってわたしたちに平和が与えられ 彼の受けた傷によって、わたしたちはいやされた」(イザヤ書53章3~5節)。
 イエス様の十字架での罪との戦いは、「身代わりの戦い」でした。十字架は、残酷な処刑です。十字架が意味するのは、人からも神からも捨てられる最も呪われた死に方だということです。神さまは義なる方です。罪を放置することはなさいません。忘れることもありません。しかし神さまが罪を犯したものを罰せられたら、誰一人その罰に耐えられず滅んでしまいます。十字架の上で血を流して苦しまれたイエス様のお姿は、本当は罪人である人間が与えられるべき罰をあらわしています。イエス様は神さまの独り子ですから、そのお力を使えば十字架を逃れることもできたでしょう。しかしイエス様が十字架から逃げてしまわれたら、罪人である私たちが罰を受けなければなりません。神さまの義はどんな小さな罪も見逃しません。私たちは皆、罪に対する神さまの罰を受けて滅びてしまいます。しかし私たちを愛し抜いてイエス様は罪の罰の苦しみの一切を引き受けてくださいました。そうして神さまに対する私たちの罪を清算してくださったのです。これが神さまの救いのご計画であり、それを神の独り子であるイエス様が成し遂げてくださいました。これを教会の言葉で「贖い(あがない)」と言います。
 もう一つは、赦す戦いです。イエス様を十字架にかけたのは、こともあろうにイエス様が救おうと愛された人間でした。しかしイエス様は十字架の上で、血を流しながら、「彼らをお赦しください」と父なる神さまに祈ってくださいました。ご自分をののしり、傷つけ、十字架に磔(はりつけ)にして殺そうとする人々を赦してくださいました。イエス様はご自分を愛する者、慕う者を愛されただけでなく、ご自分を呪い、苦しめる者をも愛し抜いてくださいました。
 イエス様の「罪と戦って血を流す」抵抗は、「愛の戦い」でした。私たちを滅びへとおいやる罪に対して、イエス様は「愛」をもって抵抗されました。そして私たちの救いが与えられました。罪との本当に戦うことができるのは、罪を明らかにして罪人だと判定する掟でも、罪人を根こそぎにする暴力でもありませんでした。イエス様が血を流し死にいたるまで愛し抜いてくださったことが、唯一、私たちを罪のもたらす滅びから解放してくださったのです。

2019年04月11日