4/14の礼拝説教から

マタイによる福音書10章34~39節
私たちはイエス様を信じて人生や人間関係に平安をもたらしてほしいと願います。ところが私たちがイエス様を選ぶ時には、家族ですら敵対すると言われるのです。どういうことでしょうか。この箇所で繰り返される大事なことは「イエス様を選ぶ」ということです。そのことを「自分の十字架を担って」、と言われます。ここを理解するための鍵は、マタイ福音書で初めて登場する「十字架」という大事な言葉です。イエス様が罪人の贖いのために十字架にかかられ、三日目に復活されたことを示す言葉です。このことを抜きにすると、十字架は「苦難」や「痛み」を意味するだけになり、イエス様が言われることは理解しがたくなります。しかし、「イエス様の十字架」を信じ救われた者にとって、「イエス様の十字架」から私たちの担う十字架への理解の鍵が与えられます。イエス様の救いをいただく前、家族であるのと同時に、罪の支配を受けていた私たちは罪人の仲間同士でした。しかし、イエス様に救われて罪人の仲間ではなくなりました。だから敵対されます。その時に、わたしたちはイエス様の弟子としてどのように振舞うのでしょうか。イエス様の十字架に倣って振舞うのです。それが「十字架を担って」従うということです。イエスが十字架であらわされたのは、ご自分を罵り、殺そうとされる人々、敵対するものを愛し抜いたことであり、赦されたことです。イエス様の弟子である者は、人々が自分たちに敵対するときにも、このイエス様の十字架のお姿を見失わず、十字架を捨てずに、赦しの御心に倣い、愛し、赦し、平和を告げるものであることが求められています。そこに命の約束が続きます。

2019年04月22日