5/5の礼拝説教から

マタイによる福音書10章40~42節
伝道に遣わされる弟子たちへの最後の教えです。ここでイエス様が教えられるのは、神さまの気前の良さです。「あなたがたを受け入れる人は、わたしを受け入れ、わたしを受け入れる人は、わたしを遣わされた方を受け入れるのである。」遣わされる弟子たちを、キリストの弟子として受け入れる人は、神さまを受け入れることと同じだと言われます。たとえば、わたしたちが教会へ来るときに自分自身は教会へ来なくても、「いってらっしゃい」と送り出してくれる家族がここに含まれます。イエス様の弟子(キリスト者)であるという理由で水一杯を飲ませてくれるような、ほんの僅かの親切でも神さまは決してお忘れになりません。必ずキリスト者と同じ恵みの報いを与えてくださいます。みんなが神さまに恵みの報いをいただくなら、キリスト者になって何の得があるのだろう、と考えるかもしれません。マタイによる福音書20章で、ぶどう園の主人に神さまは喩えられています。一日中働いた者にも、一時間しか働かない者にも同じ報いを与える主人に一日中働いた人は文句を言いました。しかし主人は答えます。「わたしの気前の良さをねたむのか」(20章15節)。私たちキリスト者も、気前のいい神さまの招きがなければ救いをいただくことはできませんでした。私たちキリスト者の存在は、神さまの気前の良さの証拠です。だから神さまの気前の良さに頼って伝道するのです。それは何とのびのびとした務めでしょうか。

2019年05月17日