5/26のオープンチャーチ礼拝説教から

コリントの信徒への手紙二 12章9節
定期購読している「みやざき中央新聞」で、紹介されたエピソードをお伝えしたいと思います。
静岡県の内山ほの栞(か)さんはこの春、中学校を卒業した。4月からは少し不自由な足で高校へ通う。
「この足で生まれていなければ…」
ずっとそう思って生きてきた。どうして私がこんな目に遭うのかと運命を憎んだ。中学1年の時の長縄跳び大会が一層その気持ちを強くした。全く跳べない訳ではない。ただ、「自分がチームにいたら記録が伸びない」と思い、自ら参加を辞退した。みんなが長縄を跳ぶ練習を見守っていたほの栞さん。連続回数が更新されるごとに歓声が上がった。その輪の中にいないのが淋しかった。もう一人の自分の声が聞こえた。
「参加したいと言うことはできたのに、足のせいにして参加しないと決めたのは自分ではないか」
それでもやはり足が憎かった。マラソン大会では、スタートラインは一緒でも友人たちはどんどん遠ざかっていく。みんなの背中がうらやましかった。かわいい靴も履けなかった。ますます自分の足を嫌いになった。
中学3年になると、これまで以上に足のことを考える時間が増えた。ある日また考えていたら、ふと心の奥からこんな声が聞こえてきた。
「この足で良いことはなかったの?」
そこで初めて気付いた。
「何かができないで苦しんでいる人の気持ちが分かるのはこの足のお陰なんじゃないか」、「乗り越えようと頑張っている人を誰よりも応援できる気持ちになれるのはこの足のお陰なんじゃないか」、「いつの間にか少し強い心になっているのはこの足のお陰なんじゃないか」(みやざき中央新聞2785号)
自分では変えられないものがあります。この世界には変えようのないものがあります。そこで、気に添わないことを「最悪!」と罵って、目を背けることもできます。けれども、自分の弱さや欠点といった変えられないものに向き合わざるを得ないとき、是非今日の聖書の言葉を思い出してください。
「わたしの恵みはあなたに十分である。力は弱さの中でこそ十分に発揮されるのだ」
これは真理の言葉です。弱さの中で、神に愛される人間が得る恵みの力によって与えられる力があるのです。「キリストの力」、すなわち愛することが始まるという不思議な恵みがあるのです。
19歳で病のために余命1年と宣告された方の文章があります。
「あたしは『いいこ』じゃないよ。時々、他の人が病気になればいいと思ってしまうから…。あたしみたいになればいいと思ってしまうから…。自分の望む結果にならない時や悪くなっている時は、自分だけ神様に捨てられた気がする。そして神様に対して、怒ってしまう。そんな自分がいやになる。」
こういう感じで始まりますが、最後は次のような文章で終ります。
 「当り前と思っていることは全然当り前じゃなくて、その全てが素晴らしいことだと気付いた。世の中に『偶然』ということはなく、全てが奇跡に輝いている。生きているってことは、とっても素晴らしい。病気になって良かった。病気になって、辛いことや苦しいこともあるけれど、色々な考えや思いを、神様にもらっているから。どんな時だって、人よりも楽しめることができるから。どんなちっぽけなことだって、感動することができるから。全てが輝いて見えるから。だから、病気になって良かったって思う。」(山本さちこ著『A7-病が教えてくれたこと』)
弱い自分は相変わらずであっても、昨日と今日が同じでも、私たちの心にイエス様をお迎えするときに新しく見え、気付かされる「恵みの力」は、確かにあります。弱さの中で働く「キリストの力」が、私たちを愛の中に生きる者へとしてくださいます。

2019年06月07日