6/23の礼拝説教から

マタイによる福音書11章20~24節
主イエスは悔い改めなかった町々を叱り始められました。「叱る」と言っても、怒っているということではありません。また、「もう知らない」と捨ててしまうのでもありません。この叱るというのは、子の罪を憂い、嘆く姿です。「不幸」と翻訳されている言葉も、うめき声をあらわす言葉です。罪のために洗礼者ヨハネの招きにも、イエス様の招きにも応じることのなかったコラジンやベトサイダの人々は、このままではソドム以上の厳しい罰、すなわち滅びに定められてしまう。しかし、どうして見捨てられるだろうか。そういう深い愛のお叱りです。聖書において、「贖い」は大切な概念です。子の罪を共に担う親の愛も「贖い」です。以前、講演で聞いたことがあります。ユダヤでは、子が罪を犯した時に、親は鞭で子を打って罪から離れるように教えました。しかしそれだけでなく、親自身も自分自身をより強く打って、この罪をその身に刻んで共に罪を担いました。子は親の傷を見て、罪から離れる決意を新たにし、親は傷をもって子の存在を刻み、絶対にこの子を捨てないという愛を新たにしたのです。この日、嘆きのお叱りをなさったイエス様は、悔い改めることのない私たちの罪の一切を担い、十字架においてその身に傷を負ってくださいました。その傷は、復活されたイエス様のお身体にも残り続けました。その傷こそ罪人である私たちを御自身に刻み込み、忘れることも捨てることもないというしるしです。お叱りになったイエス様は十字架の愛をもって罪を贖ってくださる救い主です。

2019年07月09日