7/7の礼拝説教から

マタイによる福音書11章25~30節
「疲れた者、重荷を負う者は、だれでもわたしのもとに来なさい。休ませてあげよう。」これは教会が門や扉の所に記されていることが多いイエス様の御言葉です。イエス様の招きの言葉です。イエス様は、招きに応えた者たちを、「幼子のような者」と呼んでおられます。これは神さまの招きに応えなかった者たちが「知恵ある者、賢い者」と言われるのに対して愚かだという意味ではありません。幼子は、父母を信じて、真っすぐに手を伸ばして抱きつきます。丁度そのような光景を思い浮かべられると良いでしょう。そのように父なる神さまを慕う姿こそ、神さまの御心に適う者でした。そこで大事なことがあります。それはこのように神さまを慕い、神さまに迎えられるために不可欠なのがイエス様と一緒であるということです。神さまから永遠から永遠にわたって愛されている神の独り子であるイエス様が、私たちに父である神の愛を証してくださいました。そして、軛をイエス様と一緒に負います。軛は2頭の家畜を一緒に同じ向きに歩ませるときに使われる道具です。神さまに迎えられた者には、神の子とされたことに相応しい生き方があります。それをイエス様が一緒に歩いて教えてくださいます。軛に対して「重荷」があります。これは罪によって独りで背負ってきた苦しみや悩みです。それに代わって軽い軛を、イエス様と一緒に担うことで安らぐのです。救い主であるイエス様が私たちに与えられていることこそ、救いの基なのです。

2019年07月22日