7/14の説教から

マタイによる福音書12章1~8節
安息日は十戒によって定められた仕事を離れて休む日であり、礼拝の日でした。この日には仕事をしてはならないと律法は定めていて、何が仕事になるのか、ということに当時の人々は心を奪われていました。そこで安息日に空腹のために麦の穂を摘んで食べた弟子たちの行為が「仕事」にあたるとして咎めた者たちがいました。そこでイエス様は、安息日は何を根拠に定められているのか、神さまが安息日によって私たちに求めておられるのは何か、ということを旧約聖書の御言葉から話されました。
ダビデは空腹の時、祭司しか口にしてはならない供え物のパンを食べたが、神さまはそのことを咎められたか。また安息日に神さまの御心に従って働く祭司は仕事をすることが許されているではないか。それは神さまが求めているのが「憐れみ」に他ならないからだ。
安息日は神様の憐れみ、すなわち愛に基づいて与えられている日です。だから、安息日を与えてくださったことを真剣に考えるならば、仕事か仕事でないかを議論して、人を咎めて罪人に定めることに熱心になるのではなく、飢える者の空腹を満たすように、神様に仕える祭司のように、神様の愛と憐れみをあらわすことを、神様は求めておられるのだ、とイエス様は教えられました。「疲れた者、重荷を負う者は、だれでもわたしのもとに来なさい。休ませてあげよう」(11:28)。神様の憐れみへ招かれるイエス様は安息日の主です。

2019年07月31日