7/21の説教から

マタイによる福音書12章9~21節
イエス様はユダヤ人たちの会堂にお入りになりました。会堂では、安息日に多くの人々が集まって律法を学び、祈る礼拝をしていました。「すると、片手の萎えた人がいた」(10)。ファリサイ派の人々は片手の萎えた人が目の前にいれば、イエス様が癒しの業をするに違いない、と考えました。病気の人を癒すことは仕事です。安息日には仕事をしてはいけないのです。ファリサイ派は、安息日に人々が集まっている会堂の真中ですれば、多くの証人の前で、明確に、イエスは安息日の律法に違反していると訴えることができる、と考えました。そしてイエス様に「安息日に病気を治すのは、律法で許されていますか」と問いました。イエス様は「安息日に善いことをするのは許されている」と言われて、手の萎えた人を癒されました。それは、「わたしが求めるのは憐れみであって、いけにえではない」(マタイ12:7)の神様の御心の実践でした。安息日の掟は神様の憐れみの御心によって与えられているものです。人々が神様の恵みの御心の中で、安息を与えられる、神様の憐れみの中で憩うことができる、そのために安息日はあるのです。だから、安息日に癒しの業をするのは正しいことなのです。イエス様はご自分の命を懸けて、傷ついた者を折ることのないように、罪の滅びに渡さないために、神さまの憐れみを担って世に来てくださいました。神様の憐れみの御心こそ、イエス様を信じて集う教会の拠るべき土台です。

2019年08月07日