8/11の説教から

マタイによる福音書12章33~37節
ここでイエス様が問題としておられるのは、私たちの発信する「言葉」です。言葉が証拠となって神さまの前で義と罪が定められると言われます。なぜなら言葉は心にあふれていることを発しているからです。この箇所を「きれいな言葉を使いなさい」という教えとして読むだけでは済まないのです。むしろ、そのような誤魔化しを許さない厳しく私たちを罪人として指摘するイエス様の言葉なのです。「言っておくが、人は自分の話したつまらない言葉についてもすべて、裁きの日には責任を問われる。」学生の頃、「話した言葉は決して消すことができない。書いた言葉は消しゴムで消すことも、訂正することもできる。けれども、話した言葉は決して消すことも、訂正することもできない。それを聞いた人の中に残り続ける」、ということを先生から聞いて、恐ろしく思ったことがあります。まして、ここで私たちの言葉を聞いておられ、責任を問われるのは神様です。誤魔化すことはできません。一体誰が罪に定められることなく神様の前に立てるでしょうか。一人もいません。誰も義に定められません。しかし、この罪の行き詰まりを語られた方こそが、この行き詰まりを打ち砕く救い主でした。罪の実りの報いを十字架で身代わりになって引き受けてくださいました。私たちは悪い木として切り倒されることなく、神の国に移されて、まことの父である神様から良いものをいただいて、良い木として良い実を結ぶ新しい命を与えられるのです。

2019年09月05日