9/22の礼拝説教から

召天者記念礼拝
ヨハネによる福音書15章1~10節
キリスト教会の葬儀を見た僧侶が、このような感想を語られました。「キリスト教の葬式では、死が去って行くようだ。」葬儀とは、死を告げるところです。一人の方の生涯の終わりを明らかにするところです。死に直面する寂しさと悲しみはキリスト教においても存在します。この死の力をごまかすことなく受け止め、しかし死の力に勝る復活の命を語るのが教会の葬儀です。その点で、教会は不思議な所です。死は私たちに別れを強要します。地上で結ばれた絆が断ち切られます。ところが「死が終わりではない」と信じる教会では、死をもって結ばれる絆があります。それは復活の命を信じるからです。イエス・キリストは生ける者と死せる者の両方の救い主だからです。イエス様は十字架にかかる最後の夕食の席で「わたしはぶどうの木、あなたがたはその枝である。人がわたしにつながっており、わたしもその人につながっていれば、その人は豊かに実を結ぶ」と言われ、「わたしの愛にとどまりなさい」と教えられました。死を前にされても、つながることを求められました。なぜなら、たとえ私たちの目に「枯れた骨」のように終わりを迎えて見えても、キリストの愛、父なる神の愛につながる者は、命を与えられるからです。復活の命とは神さまの愛の実りです。死が私たちをどれほど脅かしても、死の力にはもう、私たちを永遠に終わりにしてしまうことはできないのです。召された方々も私たちも、キリストの愛、神さまの愛につながっていることで結ばれているのです。

2019年10月23日