10/20の説教から

マタイによる福音書13章24~30節
種を蒔く人に続くイエス様のたとえ話です。種を蒔く人を聞いた時と同じように、まずたとえ話の中に、それからイエス様を鍵として天の国の秘密に導かれていきましょう。このたとえ話は天の国について二つのことを語っています。一つは天の国に迎え入れられるのは良い麦であること、もう一つは、毒麦と良い麦は私たちでは見分けがつかないということです。そこで、主人である神様は、間違って良いものを滅ぼすことのないように、毒麦と一緒に育て、収穫の際に見分けて、毒麦は焼き、良い麦は倉に納める―つまり天の国に入れるとされました。そうすると、私たちが救われるためには、良い麦になることが目標となります。しかし、毒麦が良い麦になることがどうしてできるでしょうか。そこで救い主であるイエス様が鍵となります。イエス様が十字架によって私たちを救ってくださったのは、私たちが良い麦になれないからです。毒麦は良い麦に自分自身ではなれません。そこで天の国に入れるかどうかを決められるのは刈り入れの時の主人の言葉にかかっていることが大事になります。神様から見て毒麦のように役に立たないものであっても、神様が迎えると決めて下されば、救われるのです。イエス様が十字架で私たちの罪を贖ってくださり、私たちに代わってただお一人神様の裁きを受けてくださいました。唯一の良い麦であるイエス様によって、毒麦である私たちは救われるのです。これが天の国であり、神様の御心が成就することなのです。

2019年11月05日