11/3の礼拝説教から

マタイによる福音書13章31~33節
イエス様のたとえ話が続いています。「からし種のたとえ」と「パン種のたとえ」では、共通しているのはきっかけは小さいものだということです。もう一つは、からし種もパン種も、蒔かれ、加えられたら分けることができないということです。からし種やパン種が神さまの言葉であることから、神の言葉は働いて隣人を休ませる大木のように、あるいは飢えているものを生かすパンのように私たちを変えるのだと、聞くことができます。これが群衆の聞き方です。ユダヤの人々は、神の特に律法を大切にしていました。律法はどんな小さな言葉でも、しっかり聞きなさいということを教えていることになるのでしょうか。大切なのは、このたとえが「天の国」について教えているということです。天の国とは「神さまの御心が実現する」こと、言い換えるならば神さまの支配を意味する言葉です。そこでイエス様を救い主として信じる弟子として、このたとえ話を神さまの御心を教えているものとして聞き直すと、受け取る側ではなく「からし種」、「パン種」としてイエス様が神さまによって与えられていることが、最も大事なことです。他の種では駄目なのです。どんなに小さくても、「からし種」であるイエス様を与えられなければ、空の鳥が巣を作る大きな木に喩えられる、天国の恵みは育たないのです。どんなに僅かでも「パン種」以外の「種」を加えたなら、粉全体が腐ってしまいます。神さまは、私たちに対する救いのご決意の実現のために、蒔かれて死ぬ種としてイエス様が世に与えられました。そこから大木のように隣人を休め、パンのように隣人を生かす愛が世に証しされるのです。

2019年11月25日