11/10の説教から

マタイによる福音書13章34~43節
イエス様による「毒麦のたとえ」(24~30節)の説明です。その前に、たとえ話について預言の言葉が引用され、「天地創造の時から隠されていたことを告げる」、とあります。天の国のたとえは、神さまの天地創造の時からの御心を伝えるために語られているのです。では、その隠されていた御心とは何でしょうか。それが「毒麦のたとえ」を通して教えられます。毒麦のたとえは、たとえ話の中に取り残されると、毒麦のような私たちに良い麦となることを教えているように聞こえます。しかし、毒麦がどうしたら良い麦となれるでしょうか。そこで、このたとえ話を語ってくださる救い主イエス様が鍵となります。天地創造の時、神さまは「在る」ことを願われて私たちを創造してくださいました。神さまの御心は私たちを失わないこと、神と共に在れ、ということです。つまり、そもそも私たちは毒麦として滅ぼされるものではなく、神さまと共に在ることを願われている良い麦、つまり「御国の子ら」なのです。どんなに神さまから離れ、毒麦に似た姿となっていても、私たちは天地創造の時から私たちは、「滅びてはならない」という御心を向けられている、紛れもない良い麦なのです。神さまによって滅ぼされるべきつまずきとなる者や不法を行う者、からみつく罪に捉えられて毒麦と見分けがつかなくなっています。しかし、救い主イエス様が来てくださいました。そして、十字架において罪の贖いを成就されたとき、私たちは御国の子であることが明らかになりました。誰もが御国の子らの姿を取り戻し、「正しい人々」と呼ばれて、父の国で太陽のように救いの喜びに輝く救いをいただけるのです。

2019年12月04日