11/24のオープンチャーチ礼拝説教から

ルカによる福音書1章46~48節
聖書が語るクリスマスの物語は、神の独り子が、人間を救うために貧しい、小さなお姿で来てくださるという、あり得ない知らせを、驚きをもって受け取った人々の物語です。特にマリアはそうでした。救い主を宿すことは、マリアには良いことは一つもないと思わざるを得ませんでした。ですから、マリアは「どうしてそんなことがあり得ましょうか」と答えました。そこには「そんなことになっては困ります」という意味を含んでいると思います。私たちは、神様のご意志に、いつも最初から、無条件で服従できるとは限りません。時には抵抗があっても良いのです。抗議が出てしまうこともあるのです。最初から人間の立場を全面的に放棄してしまうことは、必ずしも真実の服従ではありません。むしろ、心を注ぎだすことから真実の神様との出会いが始まるのです。この時、神様も心を注ぎ出しておられました。私たち人間の救いのために、最愛の独り子を罪の贖いとして、与えようとされておられたのです。御子なる神、イエス様ご自身も、私たちのために十字架で死んで、その尊い命を与えてくださるためにお生まれになられようとしていました。そのために聖霊がマリアの中に救い主の命を宿そうとされていたのです。父、子、聖霊の三位一体の神様が、全力で私たち人間の救いのために働いておられたのです。そうした神様と向き合い、心の底から神様の願いを受け入れた時にマリアは「わたしの魂は主をあがめ、わたしの霊は救い主である神を喜びたたえます」と高らかに歌いました。神様が私に目を留めてくださる。ここに救いのはじまりがあります。

2019年12月23日