12/8の説教から

マタイによる福音書13章53~58節
イエス様は故郷(ナザレ)に行かれました。里帰りではなく、他の町や村へ行かれたことと同じで、福音を告げ、神の国の到来を教えるためでした。会堂で教えられたイエス様の姿に、ナザレの人々は驚きました。この驚きは、あり得ないものを見たというような強い驚きです。そして、繰り返して、「一体どこから得たのだろう」と言いました。自分たちはイエスをよく知っていて、家族のことも知っている。だからこんな力ある教えと奇跡の力をイエスが持っていることなどありえないはずだ、と言い合ったのです。この人々の姿を聖書は「不信仰」と呼びます。なぜなら、救い主の到来を迎えなかったからです。自分たちを驚かせた教えや知恵や奇跡よりも、「自分たちは知っている」ということに留まったのです。そのために、イエス様も奇跡をあまりなさいませんでした。おそらく憐れみの心から、僅かな病人を癒された程度で、それ以上の奇跡をお見せにならなかったのでしょう。イエス様は神様の独り子であられ、私たちの罪をすべて背負って、十字架にかかって死んで下さったという、人間の常識をはるかに超えておられるお方であるということです。私たちの考えの中に救いはありません。あくまで私たちの考えの中でイエス様を理解しょうとすると、つまずきが生じます。信仰は、私たちの知っている世界をはるかに超える神様のもとから来られたイエス様を迎え、慣れ親しんだ世界からイエス様と共に生きる新しい世界へと出ていくことです。

2020年01月06日