12/15の礼拝説教から

マタイによる福音書14章1~21節
領主ヘロデはイエス様を洗礼者ヨハネが生き返ったのだと理解しました。ヘロデが捉われたのは「恐れ」でした。自分の罪を責められることを恐れ、ヨハネを殺すことで人々から受ける非難を恐れ、宴会の席で恥をかくことを恐れました。救い主の到来を迎えない者は、どんなにこの世で力があるように見えても、恐れに支配されています。そして恐れる人に群がり、その宴会の席で腹を満たす人々がいます。その宴会の行きついた先にあったのが「死」でした。一方で、イエス様はヨハネが殺害されたことを聞いて、人里離れた所に一人で行かれました。神の言葉に生き、死んだ預言者のことは心痛める出来事だったのでしょう。ゲッセマネの祈りを思い起こさせる父なる神との祈りの時を持ったのでしょう。そこに群衆が後を追ってきます。父なる神と共に救いのご決意を新たにされたイエス様は、救い主として人々を深く憐れまれました。そして、一つの奇跡をもって神様の恵みをあらわしてくださいました。5千人に食べ物を与えた奇跡は、ヘロデのように恐れに支配され、恐れる者を食い物にして死を生み出すこの世の支配に対して、神様の憐みの支配を明らかにされました。ヘロデの宴会も、イエス様の奇跡も、どちらも腹を満たされた者がいます。しかし、「死」を楽しむこの世の支配と、私たちの僅かなものを「良い言葉」によって祝福して、喜びをもって満たしてくださる神様の支配は、まるで違うものでした。

2020年01月17日