1/19の礼拝説教から

マタイによる福音書15章1~20節
「イエスは、何者か?」が大きなテーマとなっている箇所を読んでいます。エルサレムの宗教的な指導者たちにガリラヤで活動されている新進のラビとしてイエス様のことが伝わったのでしょう。そこでイエス様の言動を監査するためにファリサイ派と律法学者がやってきます。そこで彼らは、イエス様の弟子たちが食事の前に手を洗わないことを見咎めました。当時のユダヤ教では「汚れ」を清めることが重視されていました。「汚れ」は、神様にふさわしくないことを意味します。異邦人や罪人と一緒に過ごしたなら、彼らの汚れを洗い落とさないといけないと考えて、熱心に洗うのです。その根拠は「言い伝え」でした。人の言葉でした。それに対して、イエス様は「神の言葉」に立って反論されます。神の言葉よりも人の言葉を重んじる時、救いは「人の功績」によって決まります。しかし、救いは神様の御心によって定められます。神様は人を愛し、神の言葉としての律法を与えてくださいました。人を神の祝福から遠ざける行いを戒められました。それは人を救うためです。神の言葉を人の言い伝えで曲げてしまい、それを神の言葉よりも大切にするのはおかしなことです。イエス様は、神の子として神様の御心を最もご存知です。だから、律法をお与えになった神様の救いの御心もよくご存じです。体の外から汚れがくるのではありません。私たち自身が罪によって神様から離れているのです。このような私たちの救いのために、神の言葉の成就として来られたのがイエス様です。

2020年02月25日